灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第七話『赤面 ――言葉のゲーム』

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2011 / 06 / 07  Tue
由香里Ⅰ   
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「とりあえずこれどうぞ」
 先輩が、コーラの入ったカップを由香里の方へ滑らせた。

 ……さっき零したものとは別のものだ。

「あたしの奢りね。さっき京子ちゃんが、零しちゃったらしいから」

 背筋が凍った。一体、何だと言うのだ。

「飲まないの?」

 そう言って先輩は、コーラの入ったカップを由香里の方へ滑らせた。由香里は、躊躇した。

「飲みなよ」

 冷たく言う。今度は、命令だ。

 由香里は、大人しくストローに口を付ける。心なしか、変な苦味がしたような気がしたのは、気がおかしくなっているせいか、飲み飽きて舌が麻痺しているせいか、心なしか苦い味がした。

 そのとき、先輩と京子が、何か意味ありげににやりと笑うのをはっきりと感じた。

 ああ、すぐ隣に、自分をここまで貶めた悪戯の張本人がいる……。腸が煮えくり返ると同時に、こちらから話を持ちかける勇気を持てない己が不甲斐ない。こいつらにされたことを思えば、手元にあるコーラを顔にぶっかけてやりたいくらいだ。

「あのね」

 先輩は、わざとらしく深刻ぶった表情で由香里を見つめた。なるべく余裕のある表情を保とうと由香里は努力するが、顔は引きつり、血の気が引いてしまっている。

 ぞっとするほど突き放した冷たい声で、先輩は続けた。

「実は、ここに着たのは、由香里と楽しい時間を過ごす為だけじゃないの」

 いきなり勝負に出るつもりだろうか。
 ショーの大一番の場面を演出するかのように、先輩はしばらくの間を置いた。由香里の目を真っ直ぐに見据えている。反応を観察しているのだ。思わず唾を飲み込む。

「まあ、心配しないで。これから言うのは、多分そんなに深刻にならなくてもいいような、些細なことの筈なんだけど」

 「多分」の部分に変に力を込めて先輩は言った。

「今日の練習の後、由香里のロッカーの近くの床で、落し物が見つかってね。見つかった場所からして、うちの部員の持ち物だとしか思えないんだけど、皆に聞いても自分のじゃ無いって言うのよ。」

 話し終わった後、また一呼吸置く。由香里は、後頭部を思い切り殴られたような衝撃に襲われていた。

 店内には甘ったるい調子のJポップが流れている。今の状況にあまりに不似合いのその明るい曲調は、却って由香里の孤独にした。賑やかなハンバーガーショップの中、由香里の周辺にだけ、痺れるような重い沈黙が漂っていた。
 これから起ころうとしていることが、恐ろしい。

 だが、恐怖だけではない。こうして、自分を貶めた敵と面を合わせていることに、不思議な感慨も感じていた。どう転ぼうが、少なくとも、ここで決着が付く。

 黙ったまま俯いている由香里に構わず、先輩は続けた。

「その落し物が、実はね……下着……それもショーツとブラの上下両方なのね。だから、やっぱりどう考えても、水泳関係の落し物だとしか思えないのよ。ひょっとしたら補習の子達のものかもしれないと思って、一応電話で聞いてみるのも考えたんだけど、さすがにそんなことで電話するのも馬鹿みたいだし、やめにしたの。それに、補習の子達のものと考えるよりも現実的な可能性を思いついたからね。」

 長い前置きをじらすように述べてから、また間を置いた。しかし今度の沈黙は、さっきのものとは種類が違っていた。きりきりと、責めるような無言の間。「現実的な可能性」とやらが、由香里のことを指しているのは明らかだった。

***

 由香里は顔を上げることが出来なかった。玉の汗が顔中に浮かんでいるのを拭うこともせず、ただ石のようにじっとしていた。体を少しでも動かしてしまえば、この重苦しい沈黙が破られるような気がしたからだ。

「由香里さ、今日の練習の後、誰よりも真っ先に更衣室へ行ったよね。」

 先輩は相変わらず中々本題に入ろうとしなかった。延々と秘密のカーテンへ手を伸ばすのをじらし、恐怖の時間を引き延ばしているのだ。

「由香里はいつもそうだよね。誰よりも早く、着替えを済ませる。私達が入る頃には、既に着替え終わっている。ずっと不思議に思っていたの。今日も、由香里はいつもどおりに、さっさと着替えを済ませて出て行くつもりだったのかもしれないけど、今回に限ってはたまたま私達はあなたが着替えているところに居合わせたよね」

 何が「たまたま」だ、白々しい……。二人の口元、特に京子のそれが、まるで今この一秒一秒が楽しくてたまらないとでもいうかのように、にやにやと歪められている。

「……それでね。絵里が、見たんだって。……由香里が服を着るときに、パンツもブラもつけてなかったって……少なくとも、そういう風に見えたらしいの」

 何をしている。
 由香里の理性は、顔を俯けたままの自分を急かす。顔を上げろ。顔を上げて、平然とした表情で、何を言っているのか分からないと言うの……。

 しかし、出来なかった。恐怖心に由来する無力感だけが原因ではない。顔を上げることが出来ないのは、純粋に、恥ずかしかったからだ。
下着を身につけずに、シャツにパンツの無防備な格好で、外を出歩き、満員電車に揺られることを選んだことを、一人の女として恥じていた。

 自分のやったことの一部始終を、すぐ傍にいる、同じ思春期の少女二人に知られている。そしてそれを目の前で堂々と指摘されてしまった今、嫌でもそのことを意識してしまう。恥ずかしくて、顔を表に上げることが出来なかった。例え、この二人のやったことこそ、真に恥ずべき事だと分かっていても尚……その二人の視線が、由香里にはたまらなく恥ずかしかった。

 何故、被害者の自分が小さくならなければいけないのか。

 理性がそう訴えても、由香里の頬は次々に薪を継ぎ足した暖炉のように、かっかと熱く燃え盛った。

***

「……もちろん、あたしも見間違いだと思うよ。でもさ、下着が見つかったとき、誰に聞いても自分のじゃないっていうから、ひょっとしたら、部員の誰かが、他人のを間違えて履いてしまっているんじゃないか、そう考えたのね。それを調べるために、部員皆に、履いている下着が自分のものかどうか、確かめてもらったの。確かめると言っても、自分が着ている下着が本当に自分のものか、ロッカーから自分の下着が無くなってないか、見せてもらうだけだけどね」

 由香里は怯えた猫のように、ただ体を堅くするばかりだ。

「……で、チェックの結果、皆ちゃんと自分のを履いてたみたいなの。下着が無くなった人もいなかった。
 もちろん、誰かが嘘をついているって可能性もあるけど……ほら、部員の女の子達って、よく遊びで下着を見せ合うことがあるじゃない?だから、どんなパンツを履いてるだとか、何枚持ってきているだとか、大体傾向とかは把握しあっている。嘘はつきにくいはずなのよね。たぶん、部員の皆の中には、下着の持ち主はいないだろうって話になったの」

 長々とした先輩の理屈は、ほとんど由香里の頭を通り抜けるばかりだった。

 いざとなれば、白を切ればいい。さっきまでは、そう思っていた。

 同級生の少女の下着をチェックするなんて、そんな口実はなかなか作れるものではないと、たかを括っていたところがあった。しかし、そんな最後の砦すら、瓦解してしまうのではないか。先輩の理屈を聞いているうちに、そんな予感がしてきた。

「そうなると、やっぱり自然と、由香里が怪しいって話になってしまうのよ。あの場にいない水泳部員は由香里ちゃんだけだったし。ただ、それには問題があって……。」

 先輩は、由香里を追い詰める為の要塞の仕上げに取り掛かった。

「ほら、由香里は普段、自分の下着を人に見せることって、無いじゃない。いつも……言い方は悪いけど、こそこそと着替えているでしょう?
 だから、誰も由香里が普段どんな下着を履いてるか、分からないのよね。ううん、別に由香里が、それをいいことにしらばっくれるつもりだとか、そんなこと言うつもりじゃないのよ?ただ、由香里は結構、恥ずかしがりやさんだから。
 もしチェックをして、由香里が自分の下着を履いてない……つまり、誰か別の人のものを履いていたとして、そのとき正直に言えるかな?って思うところがあるのよ。だからといって、部員皆にやってもらったことを、由香里にだけやらないっていうのも、不公平だし」

 先輩の理屈を理解するだけの余裕は、由香里には無かったが、その理屈が由香里を裸にし、辱めるための、口実であることは明らかだった。

「まとめるとね、私の推察はこう。たぶん、もともとは、補修の誰かが、この水色のものとは別の下着を、ロッカーの中に忘れていったんだと思うの。だって、部室に入ったときは、由香里ちゃんのロッカーの近くに、水色の下着なんて見かけなかった。それに、部員の皆は自分の下着を履いていたし、予備の下着が無くなったわけでもないんだから。で、補修の子がロッカーに残していった下着を、部活が終わった後、そのロッカーを使っていた部員が間違えて履いてしまった。代わりに、自分の下着を床に落としてしまった。私は、そのロッカーを使っていた部員というのは、由香里じゃないのかな、って思うのね」

 先輩も、由香里を納得させるつもりはないらしい。淡々と、事務的に、口実を作り上げていった。

「だから、由香里には二つ、お願いをしなくちゃいけないの。
 一つは、今日、どんな下着を履いてきたかを、できるだけ詳しく教えてほしいの。
 もう一つは、教えてもらった後で、その証拠を見せて欲しいの。つまり……別にいいでしょ?自分の証言した下着を履いてるか、見せてもらうだけなんだからさ」

 そう言いながら、先輩はからかうかのように由香里の肩を揺さぶった。
 先輩は再び、沈黙した。追い詰められ、錯乱状態にある由香里に、自分の言ったことを整理する時間を与える為だろう。それはすなわち、逃げ道が無いことを思い知らせる為の時間だった。

 由香里もようやく先輩の口実を理解しはじめた。

 こんな理不尽な要求を受け入れるなんて……。由香里の頭の中で、一つの光景が広がった。二人の前で、衣服を剥がれ、丸出しの恥部を晒し物にされる光景が……。そしてあられも無い姿のまま、自分を貶めた張本人達に侮辱の言葉を投げかけられるのだ……。

「いや……」

 由香里はぼーっとした頭のまま俯き、呟いた。先輩達が故意に作り上げた、平和な空気には似合わない、命乞いのような、掠れる声だった。

 先輩は、何も言わない。まるで、肯定以外の言葉は聞こえないかのように。

 重い沈黙。

 そのときだった。

 由香里の中で、ある考えが閃いた。
 認めてしまえばいい。
 ……そう、確かに自分は他の子の下着と自分の下着を間違えたと、認めてしまうのだ。もちろんそれは、濡れ衣を自分から被るということになる。が、その代わり、認めてしまうことによって、同時に由香里の体を確かめるための機会は消滅するはずだ。

 例えば、「実は、さっきトイレに行ったときに、気づいたんです……」とでも言って。

 ――そうしてしまえば、向こうには調べる口実が無くなる。

 だが、それは由香里にとって、重い一手だった。相手のでっちあげの口実に乗ってしまうという、大胆な一手なのだから。

「恥ずかしがることなんて、無いのよ。」

 由香里は下を向いているため相手の表情は分からないが、その声には明確な悪意が潜んでいた。由香里の中で決めかねていた決意が固まった。由香里はつばを飲み込むと、顔を上げた。

「あの……実は……」

 由香里は例の嘘を話し始めた。そこには何らの感情の抑揚も、それらしく聞こえさせるような工夫も一切無かった。ひたすら事務的に、先輩の手が自分の衣服に掛けられぬ為の口実を紡ぎあげていった。そう、もはやこれは言葉のゲームなのだ。由香里が黙々と話している間、先輩は眉一つ動かさない、冷たい表情で聞き入っていた。
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