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電車に揺られている間、由香里はひとときも安らぐことはなかった。
家に帰るまでの電車の道のりは、大体一時間半は掛かる。まだまだ、中間地点にも指しかかっていなかった。
その時だった。ふと、体にじっとりとした視線を感じた。今まで自分を挙動不審にさせてきた、さらりと通りすぎていく類の視線とは違う。その視線は、紛れも無く自分の横顔に向けられている。
顔を下に俯けたまま、目を合わさぬよう、視界の端で窺ってみる。
そこには少女が立っていた。
知っている顔だった。
佐村京子。一年の頃の同級生だ。とは言っても、口など殆ど聞いたことは無い。
それでも、由香里にとっては印象深い子だ。
彼女は元水泳部員だった。
由香里は顔を上げずに、上目で少女の無表情な顔をしっかりと見た。目が合った。
数秒の間、二人は見詰め合った。
ふと、京子は、視線をそらした。由香里には背中を向け、向かいの窓の外をぼんやりと眺めるように。
そのときだった。窓に映った京子が、口元を歪ませた。笑ったのだ。由香里の予感を裏付けるように。
***
……もしかして、気付かれたのだろうか。
そんな筈は無い。
幾らなんでも、見ただけで、レントゲンのようにTシャツの下を見透かすような芸当は出来ない筈だ。よっぽど注意深く見れば、Tシャツの胸の膨らみが、やや重力で潰れた感じになっていることに気付くことは可能だろうが、普通、そんな僅かな違いに気付くことは出来ないし、それだけの根拠で由香里の格好を察知できるとは思えない。
やはり、考えすぎだと思う。だが、由香里の思考は悪いほうにばかり向かうのだった。
万が一、彼女に今の姿を知られてしまったら……。
悪戯を仕掛けた先輩達になら、まだ耐えられる。張本人故に、由香里が好んでこのような格好をしているのではないと知っているし、何より、最も恥ずべきはこのような悪戯を仕掛けた先輩達の方だ、という信念があった。
しかし裏の事情を知らない、顔見知りの同級生となれば、話は別だった。
特に、京子は……――。
ガラスには京子の姿が映っていたが、顔を俯けていて、表情を窺い知ることは出来ない。
と、電車が揺れた拍子に、京子が前のめりに体勢を崩した。
そのとき、ガラスに映った京子の手元に、白く光った四角形の何かが見えた。
携帯だ……。
京子がさっきから俯いているのは、携帯に向かって何やら熱心に打ち込んでいたのだ。
メールで、わたしのカッコウを級友達に広めているんだ――。
瞬時に、由香里はそうした考えに至った。
しかしすぐに、決してそうとは限らないことに気付いた。仮に京子が由香里の格好を疑ったとして、証明する手立ての無いそんな疑惑を、すぐに友人達に広めるとは思えない。そもそも、京子が自分の格好に気付いていること自体、非現実的な妄想だ。
――そうよ、ただ見るだけで、下着を身につけていないことを察することなんて出来る筈が無い。
明らかに正しい理屈。しかし、感情を支配することにおいて、不吉な直感はそんな論理を遥かに勝った。
あの微笑は、一体何だったのか。由香里には、あれが自分に対して向けられた笑みだという、説明のつかない確信があった。そして、あの微笑の中に幾分かの嘲笑が含まれていたという確信も……。
不可解な笑み、その直後のメール。これらの謎は、ただでさえ、不安と弱気に覆われていた由香里を追い詰めるのには十分だった。由香里は次の駅で降りることを決意していた。
***
電車を降りるまで、ついぞ京子の方を見ることは出来なかった。
京子が自分の破廉恥な姿を知っているという妄想は、ただその可能性を考えるだけで、京子と同じ空間にいることが、とてつもない苦痛に感じさせるほどのものだった。
由香里はしばらく、人ごみに流されるように呆然と歩いていたが、やがて思い立つと、改札を出てすぐ傍にあるハンバーガーショップに入った。今はとにかく、落ち着く場所が欲しい。
とても何かを食べる気持ちにはならなかったので、シェイクを一つだけ頼んだ。
由香里は今時珍しく、ファストフードを利用するのは初めてだった。お店のけばけばしい、安っぽい外観や、手づかみで食べる食事に抵抗があったのだ。
無愛想な眼差し――女性店員にとっても、由香里は自分とは違う世界の生き物に見えたのかもしれない――で差し出されたシェイクの大きさに驚きながら、うろうろと空いている席を探す。一階席はどこも一杯のようなので、由香里は二階の窓際の席に座った。
できれば奥まった席が良かったが……。
このような店に立ち寄るのは、夏休み中とは言え校則違反だったし(とは言え、浜崎女子学院では、定期的な見回りなど存在せず、殆ど野放し状態だったが)、今の由香里の気持ち的にも、人目の無い日陰でじっとしていたかった。
机の上にスイミングバッグを置き、その上に突っ伏した。泣きたいと思っていたのに、思ったように涙が出ない。未だ、緊張が解けずにいるせいだろう。
由香里は、思い出に耽った。
何故か、思い浮かぶのは子供のころの記憶だった。まだ由香里がずっと幼かった頃、父の経営する会社に、傘を届けに行った時の帰り道、父は由香里を、近くのファストフード店に連れて行こうとした。父からすればご褒美のつもりだったのだろうが、見慣れない看板や、店の前の珍妙な人形に、幼い由香里は拒否反応を示して、泣いて嫌がった。
――思えばわたしって、泣き虫な子供だったんだなあ……。
――今でこそ、泣くことは滅多にないけれど。
そう心の中でつぶやいたとき、暖かいものが頬を伝った。
***
泣いたのは久しぶりだ。
”あの夜”以来、絶対にいじめには屈しない、涙を流さないと心に堅く誓って頑張ってきたのに……。とうとう、自分はまた、泣き虫の由香里に戻ってしまった。
最後に泣いたのは高校一年生の夏、自分がいじめられていると自覚し始めた頃、一度だけ、誰もいない自分の部屋で泣いたのだった。
…
……
………
その夜、由香里は夢を見た。表情の無い少女達から、底の無いプールに投げ込まれる夢だ。
何度もプールサイドに這い上がろうとする由香里は、少女達に蹴落とされ、飛沫を上げてプールに沈む……。由香里は助けを求めるが、プールサイドにずらりと並んだ少女達は――のっぺらぼうの顔に、白い歯の並んだ口だけがついていた――にやにやと笑いながら観劇している……。次第に少女達はモップで由香里の頭を押し付け、プールに沈める……。恐怖と混乱で暴れる由香里の頭上で、遠く少女達のはしゃぐ声が響く……。
悪夢から目が覚めたとき、由香里は、恐怖で縮こまり、震えていた。自分が夢を見ていたことに気付くと同時に、由香里は自分が失禁した痕跡を目の当たりにした。
それから母が起こしに来るまでに、由香里は布団で涙が枯れるまで泣いた。
部屋に入った母は布団を湿らせたそれに驚愕した。これはただ事では無いと、色々問いただす母の前で、由香里は今まで泣いていた痕跡など微塵も見せず、気丈に振舞った。いや、気丈に振舞うどころか、失敗を恥らう様子も見せぬ反抗的な態度ですらとった。
その日の前日、由香里は従兄弟の誕生会で、母の制止も聞かず、薦められるままに軽いお酒を飲んでいた。幸か不幸か、高校生にしては幼稚すぎる粗相はお酒の未熟さ故の失敗ということで、母の中で結論が出たらしい。それほどまでに由香里の演技が完璧だったのか、母の鈍さからかは分からないが、母親の娘への心配はすっかり掻き消え、高価な布団を台無しにしておいて、反省の様子を見せない子供っぽい娘への怒りに代わったのだった。
親戚が泊まっている中、風呂場まで汚れた姿で降りるわけにも行かず……それ以上に、母は罰の意味合いも込めていたのかもしれないが、母は由香里をその場で裸にして、親戚が帰るまでのしばらくの間、部屋に閉じ込めてしまった。
しかし由香里は満足だった。怒っている母を尻目に、自分の秘密――いじめという悪夢――を家族や親戚に隠しおおせたことに、安堵していた。
………
……
…
今までずっと、屈辱の記憶をバネに、先輩達のいじめに耐えてきた。大好きだった水泳。もし先輩達から逃げてしまえば、二度と水泳を楽しめないような気がした……。だから、戦ってきたのだ。
湿っぽい自己憐憫に耽っていると、心の風景が投影されたかのように、窓の向こうでは雨が降り出した。
――そろそろ帰ろうか……。
また電車に乗らなければいけないことを考えると、暗い気分になる。
シェイクを片付けようと思いたって、窓から視線を外そうとしたそのとき、由香里は信じられないものを見た。
***
駅の、時計が掛かった柱の下。そこに、京子が立っていた。京子は、ぼんやりと車の往来を眺めていて、時折携帯を取り出しては、何やらいじったりしていた。
由香里がここに来てから、まだそんなに時間は経っていない筈だ。それなのに、どうして駅の改札に京子が立っているのか。
彼女は電車に乗ったまま、行き過ぎた筈ではないのか。
しかしそうとは限らないことに、由香里は気付いた。電車を降りたとき、その場から距離を置きたい一心で、振り返ることをしなかった。京子は、人ごみの中に紛れて、由香里の後を付いてきたのではないだろうか。
……あるいは、彼女自身の用事があって、駅を降りたのかもしれない。こちらの方が、現実的といえるだろう。普通ならば……。
しかし、そうだとすると、駅前で何をするというわけでもなく、突っ立っているのは、どういうことだろう。
待ち合わせ?
その可能性も、無いとは言えない筈だが、由香里にはどうしても、そうは思えなかった。
彼女は――京子は、由香里を監視しているのではないか……。
その疑惑は、すぐに現実味を帯びた。京子は携帯をしばらくいじった後、顔をさっと上げると、……迷うことなく一直線に、由香里がいる窓を見たのだ。
まるで、最初からそこに由香里がいることを、知っていたかのように。
そして……。
由香里のいるハンバーガーショップに繋がる横断歩道を歩き出した。
気が付くと、由香里は立ち上がっていた。
間違いなく、京子は自分を追って、ここに向かっている。もはやそのことを、疑ってはいなかった。
飲みかけのシェイクを載せたトレイを持って、由香里はカウンターへ向かった。
――由香里は、ファストフードを使った経験が無かったから、使い終わったトレイなどは、カウンターに返すものだと思い込んでいたのだ。
しかし、カウンターには新しく来た客が列を作っている。
由香里もその列に加わった。
――はやく、はやく……。
しかし、よく見ると、彼らの中に、由香里のようにトレイを持った人など皆無だった。周りを見回して、ようやく、ファストフードのシステムに気付く。
列から抜け出してゴミ箱の前にやってきて、さあと思ったのもつかの間、由香里はまたも、世間知らずから来る無意味な葛藤に悩むことになった。
飲みかけの、まだ中に残ったままのシェイクをゴミ箱に捨てることが、どうしても出来なかったのだ。
席に戻って飲み干そうか。……そんな暇は無い。
では、ここで残りを飲んでしまおうか。……そんなみっともないことは、とても出来ない。
透明な自動ドア越しに外を見た。歩道の延びた先に、京子がさっき渡った横断歩道の一部が見える。今にも、自動ドアが開き、京子が入ってくるかもしれない。焦りが由香里を追い詰める……。
出口を目の前にして、由香里はおろおろするばかりだった。
肩を叩かれたのは、その時だった。
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