灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第九話『ハプニング――訪問者』

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2011 / 06 / 08  Wed
由香里Ⅰ   
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 音の主が姿を現す前に、乱れた衣服を整えなければ。
 由香里の行為を邪魔する手の存在を感じた。

 先輩が、指をファスナーの谷間に引っ掛けていたのだった。

 ――何を……!!

 由香里は信じられない思いだった。今の由香里の姿を見られて困るのは、先輩も同じ筈ではないか。

 吐き気とショックで息も絶え絶えに、由香里は隣の女を見上げた。

 しかし、あの破廉恥な女は、口元を微かに歪ませ、視線をテーブルの外に向けており、由香里と眼を合わせることは無かった。

 咄嗟の判断で、由香里はファスナーから手を離し、シャツの裾を引っ張り下ろした。薄い布越しに、由香里の手が先輩の手の甲に重なる。

 次は、テーブルの中央の、コーラ漬けのショーツだ。しかし由香里が手を伸ばすより先に、京子がそれを摘み挙げていた。京子はそれを、汚いものをゴミ箱に捨てるようにコーラのカップに仕舞うと、蓋をした。そして由香里の方を見て、にやりと笑った。

 足音が徐々に近づいてきた。

 息を大きく吸い込むと、空気と入れ替わりになるように、嘔吐の波は引いていった。

 誰かが二階に上がったからといって、足音の主に見つかるとは限らない。由香里達のいるテーブルはコの字型の部屋の先端から二つ目にあり、その中でも、由香里の席は廊下に面さない、角から見て手前の場所だ。階段はコの字の縦棒中央につながっているから、音の主が二階に昇っても、即由香里が見えるわけではない。

 少なくとも、音の主が階段を上った後左に曲がってくれれば……あるいは、右に曲がったとしても、廊下の奥まで来なければ、テーブルごとに設けられた敷居にさえぎられ、由香里の下半身の乱れに気づくことは無い筈だ。

 左……どうか、左に曲がって……。

 しかし、事態はすんなりと、最悪な方に向かった。再開した足音は、明らかにこちらに近づいてきていた。

 ――どうして……。

 あまりの絶望に、由香里は死んでしまいたい気分だった。
 そのとき、ファスナーの谷間を引っ張っていた先輩の指の力が消えたかと思うと、今度はその指がぐいぐいと由香里の体にねじ込まれた。

 ――……!

 涙に濡れた瞼を開く。来訪者を迎える構えだろう。先輩は素知らぬ表情で廊下の先を見つめていた。こんなに由香里が追い詰められているときでも、先輩は鬼畜な所業を平然と続けることが出来るのだ。

 由香里は不快な侵入に抵抗することを諦め、絶望のため息と共に、再び瞼を硬く閉じた。

 もう、自分にはどうすることもできない。ただ丸くなって、祈るだけだった。
 
 足音は、どんどん近づいてくる。

 ―止まれ!止まれ……!

冷静に考えれば、足音の主はさっきの騒ぎを聞きつけた店員とは限らないと気づくことが出来たはずだが、何故か由香里の中では、足音の主は不審を嗅ぎ付けた店員だとしか思えなかった。

 そして実際、事実はそうだったのだ。

 足音は手前のテーブルではなく、ぴったり由香里達の座席の前で止まったのだった。

 由香里はすぐ傍に人がいるのを、気配で感じ取ることが出来た。その人物が、恐らくは男であることも。

 男の前で、今の自分がしている格好を思い、由香里は生きた心地がしなかった。

 隣の先輩は、由香里に密着し、それでいてその視線は平然と外に向けられている。
 こんな格好で男の前で顔を上げることなど、由香里には出来る筈も無かった。
 頭上から、男の声がした。

「あの、どうかされましたか?」

 その声は遠慮がちで、やや内気な雰囲気があったが、間違いなく大人の男の声だった。
 その重低音に、由香里は思わず身が縮めてしまう。由香里は息を潜めるようにして、テーブルの上で頭を丸めていた。

「ひょっとして、気分が悪いのでしょうか?」

 先輩達は何も言葉を発しなかった。男の声のうろたえたような様子から、きっと冷たい表情のまま知らぬ振りをしているに違いないと由香里は察した。


 このままの状態が続けばまずい。この明らかに小心な店員は、間違いなく他の店員達の力を借りようとするだろう。ことが大きくなることは、由香里は望んでいなかった。

「あの……」

 気がつけば由香里は顔を微かに挙げて、男を見た。男は学生風の背格好。店の制服を着ている。
 背丈と低音の声の割に顔はどこか幼く、青い髭の剃り跡が無ければ、高校生に見間違えられてもおかしくない。声から想像した通りの、気の小さそうな青年だ。オタク風と言ってもいいかもしれない。

 焦りから声を発したものの、その後が続かない。沈黙の中、男、先輩、京子の視線が自分に注がれるのを感じる。先輩達の視線には、何か監視するような気配があった。きっと、由香里が何かを「密告」し、助けを求めることを恐れているのだろう。
 もとより、そんなことをするつもりは由香里には無かった。助けを求めるということは、自分の恥を晒すことでもあったのだから。

 由香里は果敢に持ち上げた顔を再び俯けてしまった。

「……ちょっと……風邪気味で……それだけです。……何でもないので……」

 廊下の壁に眼を逸らしながら、由香里は適当な嘘で沈黙を埋めた。まだ息は整っておらず、声は緊張から震えている。

 「何でもない」と言ったところで説得力があるかは疑問だったが……。

「そ、そうですか……。……とりあえず、コーラ、お拭きしましょう」

 店員は取り繕ったような明るさでそういうと、布巾でテーブルのコーラを拭き始めた。
 由香里は再びうつ伏せになった。股間に差し込まれた先輩の手を押さえつけながら、今にも散開しそうな意識を必死に寄せ集めて、考える。由香里が心配したような、やっかい事にはならずに済みそうだ。
 この店員は、テーブルを拭き終われば、そのまま立ち去ってくれるだろう。あと少しの我慢だ。

 とはいえ、店員がテーブルを拭く最中に、ショーツの入ったカップを一瞬持ち上げたときには、心臓が凍りついた。だが店員は何も不審を感じることもなく、カップを再び下ろすと、その後もテーブルを拭く作業に没頭した。

 由香里は胸を撫で下ろした。それどころか、このような危うい橋を渡った先輩達は弱気になってしまって、彼がいなくなった後、由香里を解放してくれるんじゃないか。

 ……由香里は見落としていた。このとき、店員の性格を見抜いていたのは、由香里だけではなかったことを。

 ***

 店員はテーブルを拭き終わると、もう一度由香里達に尋ねた。

「あの……苦しそうですけど、本当に大丈夫なんですか?何なら、バイト用の休憩室を貸しますけど……」

 由香里が断ろうとしたときだった。股間を覆っている先輩の手が、突然命を与えられたように蠢いた。

 ――……ぁっ!?

 声は出さずに済んだものの、体は反応してしまった。突然縮み上がった由香里に向けられた店員の視線。
 その視線を引き戻すように、先輩がようやく口を開いた。

「あの、ちょっといいですか。やっぱり心配なので、少しこのコに横にならせてやって欲しいんです。」

 聞き覚えのある、白々しい口調だった。ついさっきまで、まだ先輩が冷静だったときの、ねちねちと、由香里を追い詰めていたときの、あの口調だ。

「体調が悪いって言っても、休憩室を借りなきゃいけないほどではないんです。ここでちょっと横にならせてもらえば十分なんです。ねえ、由香里、そうでしょ?」

 由香里が黙っていると、股間に当てられた先輩の指が、各々に蠢き始めた。思わず肩を竦める。

 耳元で先輩の声が聞こえる。

「ねえ?そうでしょ?」

 陰毛が引っ張られた。

 ――や、やだ……やめてよ……。

 今度こそ、由香里は声を出さずにいられなかった。
 どんなに鈍い人間でも、この異様な様子を見て不審に思わないわけがない。だが、店員は黙り込んだままだった。黙り込んだままというより、目の前で起こっていることに対して、何と言っていいのか戸惑っているのだろう。

 由香里は頷いた。それを確認して、先輩は続ける。

「ただ、ここってちょっとうるさいじゃないですかあ。だから、店長さんに言って、少しの間静かにしてもらいたいんです。」

 先輩の言っている意味が、由香里にはよく理解できなかった。店員も同様だったらしい。きょとんとしたまま、眼が泳ぐばかりだ。彼が何か言おうと口を開きかけたとき……先輩はそれを待たずに続けた。ただし、今までとは違った、棘のある口調だ。

「だからあ。このうるさい音楽を止めてって言ってんの。あんたにぶいわねえ~。」

 この無茶な要求に、ただでさえ豹変した先輩に驚いたオタク風の青年が、言葉を失ってしまうのは当然だろう。

「お、音楽、ですか。でも……。その……店の音楽は、他のお客様のこともありますので……聞いてみないと分からないですけど……多分……」

 オタク店員は狼狽しきっていた。年下のはずの先輩に、すっかりおびえているらしい。

 その後も先輩は、何故無理なのか、病気の客よりBGMの方が重要なのか、など、オタク店員をねちねちと追い詰めた。「実は由香里はコーラを飲んだ途端に、気分が悪くなった。この店には衛生上の問題があるに違いない」といったことまで言い始めた。

 先輩は、決して大声を張り上げていたわけではない。しかし、その声には静かながらも異様な威厳と圧迫感があった。
 まだぽつぽつと残っていた周囲の客の何人かが、ただならぬ雰囲気を感じ、席を立った程だ。

 それほど長いやりとりがあったわけではないが、オタク店員は、今にも泣き出しそうな表情で、地面を見つめることしかできなくなっていた。そのときだった。
 重い沈黙の中で、先輩の声が甘い声に変わったとき、由香里の心臓は凍りついた。形容しようの無い、不吉な予感を感じたのだ。

「ねえ店員さん、手、出して」

 ずっと年下の子供をあやすような口調で、先輩が言った。

 オタク店員は一瞬戸惑った後、おずおずと手を差し出した。先輩が、由香里に侵入していない方の手で、その手を握った。
 女性に手を握られるような経験が無いのだろう。オタク店員は明らかに動揺し、困惑していた。
 次の瞬間、先輩は信じられないような台詞を吐いた。

「店員さんって、童貞でしょ」

 唖然としたのは、オタク店員と由香里だけではなかった。事の成り行きをにやにやと眺めるだけだった京子ですら、何を言ったのか理解が追いつかない様子だった。

「……な、何……?」

 オタク店員は引きつった笑いを貼り付けたまま、真っ赤になった。

「ふふ、それじゃあね、いい物あげる」

 オタク店員の言葉を待たずに、先輩はある物に手を伸ばした。
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