灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第一話『孤独なエース ―― 消えた下着』

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2011 / 03 / 23  Wed
由香里Ⅰ   
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 十六歳の雨宮由香里(あまみやゆかり)は夏の匂いを満喫していた。

 八月一日、高校二年の夏休み。屋内プールの二階の窓から眺める空は晴れ渡り、深緑色の景色を美しく彩っている。太陽に照らされた山々を眺めていると、コンクリートの水が乾く独特の匂いが吹き飛ぶようだ。
 由香里の背中では、少女達が足をばたつかせる音が聞こえる。

 今日は浜崎女子学院毎年恒例の水泳補習の日だ。

 とは言っても、由香里はそれに用があってここにいるわけではない。水泳部員、それもエースの由香里は補習などとは無縁だった。練習が始まる昼まで、補習が終わるのを待つわけである。
 
 突然肩を叩かれた。振り向くと同時に、尖った感触を頬に感じる。
 人差し指の主は華奢な体をスクール水着に身を包んで、茶色っぽく細い髪を首に巻きつけて、リスのような顔で笑っている。
 岡村朋子……朋ちゃんだ。二人は目を合わせて微笑んだ。この悪戯は、由香里たちが小学校の頃に流行りだしたものだ。二人はその頃からずっと一緒だったが、朋ちゃんは高校生になった今でもこんな子供っぽい冗談にはしゃいだりする。
 由香里はまだTシャツにジーンズのままだったが、朋ちゃんは由香里を濡らすのもお構いなしにぴょんと跳ね、隣にならんでガラスにもたれた。息を切らしているところを見ると、ついさっき泳いできたばかりらしい。

「お疲れ様、どうだった?」

 由香里が聞くと、朋ちゃんは息も絶え絶えにタイムを言った。どうやら補習はまだまだ続きそうだ。

「疲れたー。もう駄目だよー。あとは平泳ぎだけなのになあ。はあ……」

 と肩を落とす。

 水泳の技術に関してもそうだが、親友同士なのに、二人はことごとく対照的だ。朋ちゃんは水泳部員ではないので、由香里に比べて泳ぎが下手なのは頷けるが、運動神経、勉強などにおいても、由香里は優秀で、朋ちゃんはぱっとしない。性格も、由香里がしっかり者なのに対し、朋ちゃんはおっちょこちょいでいい加減だ。

 二人は座り込み、他の子達が泳ぐのを眺めた。

 少女達のぎこちない泳ぎに弾かれたプールの水はきらきらと眩しい。
 プールサイドの子も含めて、補習を受けているのは五、六人くらいだろうか。補習が始まった頃に比べたら大分人数は減ったようだ。今残っている子達は、朋ちゃんも含めて、泳ぎの下手な精鋭というわけだ。

 下手な泳ぎを見るのに飽きると、由香里はコンクリートに視線を落とした。

 ふいに、影が差した。見上げると、背の高い少女が、長い黒髪に手をやりながら由香里を睨みつけていた。

 楠田先輩だ。

***

 アスファルトに差した、楠田先輩の影。

 逆光で顔の表情は暗くなっているのが、却って迫力を増していた。

 先輩は二人を交互に見比べると、隣に三角座りしている朋ちゃんが、水着を引きずり、後退る。由香里はというと、先輩のこういう脅しの目つきには慣れっこだった。

「由香里、この子、あなたの知り合い?」

 先輩は由香里のことを下の名前で呼ぶ。他の子は苗字に「さん」付けにしているのに。これもまた、いつものことだ。

「そうですよ。それが何か?」

 先輩の目を真っ直ぐに見て、挑戦的に由香里は答えた。

「あのさ、私は部長の責任を果たすためにもこんなこと言うんだけどね。あなた達補修生が切り上げてくれないと、私達水泳部は練習を始められないの。月末には大会も控えてるから練習したいのに、はっきりいって、迷惑なのよね。」

 ――やっぱり。

 思った通り、楠田先輩が話しかけたときに限って、よい話題なはずがない。

 もちろん、先輩の言う事も、気持ちとしては理解できる。特に先輩の世代にとっては、今年の大会が最後なのだ。
 しかし、学校の行事である以上仕方が無いことではないか。少なくとも、朋ちゃんが責められなければいけないことでは無い筈だ。

 由香里はそう思ったが、先輩の目をじっと睨み返すだけに留めた。この水泳部ではいくら正論でも、先輩に反抗するようなことは愚かしい行為でしかなかった。

 二人はしばらく睨み合い、先輩が先に目を逸らした。

 先輩が圧し負けたということではない。気に入らない相手には、何かある度に小さな因縁をつけてはプレッシャーを掛け、しかし大事にならないよう、自分からあからさまに手は出さないし、相手にも喧嘩をするきっかけを与えない。ちくちくと小さな嫌味やいじめを繰り返すことで長期的にストレスを与えるのが楠田先輩の、いや、この水泳部の上級生達のやり方だった。そしてそのやり方で、実際に気に入らない部員を辞めさせてきたのである。

「……ごめんなさい。頑張ってるんだけど、どうしても出来なくて……」

 朋ちゃんが沈黙を破った。親友の震えた声に喚起され、久々に由香里は大きく出た。

「楠田先輩、これはエースとして言わせてもらうんですけど……そのことで、朋ちゃんが責められる謂れはありません」

 立ち上がり、目をまっすぐ見つめて、由香里は言ってのけた。

 言ってしまってから後悔する。言い過ぎただろうか……。

 だが、先輩は無言のまま、口の端を歪めて笑うと――その整った顔立ちのせいだろうか、楠田先輩は、こういう冷たい微笑がすごく似合う……――最後の一睨みを利かせ、行ってしまった。

 階段を下りる時、長い髪からはみ出た先輩の耳は燃えるように赤かった。

***

「朋ちゃんはなんにも悪くなんか無いんだから。」

 由香里は励ましたが、朋ちゃんはその後、終了の笛が鳴るまでずっと泣いていた。

 朋ちゃんが帰った後の練習は、普段どおりだった。

 準備体操の後、下級生が橘先生を呼びに行き、上級生は一通りタイムを計り、先生から助言やフォームの指導を貰う。その後先生は職員室へ戻り、部員達はタイムを短縮するべくトレーニングメニューをこなす。最後にもう一度タイムを計り、先生を呼びに行き、解散する。

 これが水泳部のメニューだった。先生は、いつも現場にいるわけではない。このことが、由香里にとって、そして下級生達にとっての不幸の種だった。先輩達は、先生がいない間好きなだけ権力を行使できるわけだ。

 この橘先生という水泳部の顧問は、ベテランの中年男性教師である。生徒に対しても常に敬語を使い、柔らかい人当たりで、学内の生徒からも安定した人気がある。教育方針も大らかで、所謂放任主義という奴だ。

 しかし、こういった先生はともすれば生徒に付け入る隙を与えてしまう。
 もし顧問の先生が、少しでも細やかな人だったならば、部員達の間に見え隠れするぎくしゃくした雰囲気、特に、由香里に対する、他の部員達のよそよそしい態度に気付けた筈だ……。

 由香里は、水泳部の皆から嫌われていた。

 性格が嫌われているのではない。由香里は楠田先輩に劣らず美人で、水泳の成績もダントツだったが、決して威張るようなことはしなかった。ただ、置かれている状況に問題があった。

 由香里は明らかに、楠田先輩に目を付けられていた。

 丁度一年前の夏を境に、由香里は楠田先輩に猛烈に嫌われ、それに伴い、仲の良かった部員達からも避けられるようになった。
 何故楠田先輩が自分を嫌うのかは、由香里にも見当が付く。嫉妬である。由香里の実力は一年の頃から群を抜いており、一年の夏には、大会の成績で部内のトップに躍り出てしまった。それまでエースだった楠田先輩に代わって。

プライドの高い楠田先輩にとって、トップの座を奪われるだけでも悔しいことなのに、その抜かれた相手が普段威張り散らしている下級生であるなんて、耐えられなかったのだろう。

 その頃からだ。権力による、由香里いじめが始まったのは。

 例えば、準備体操や筋トレイでペアーを組む場合、由香里は必ず一人になる。もちろん、先輩がそうさせているのである。先輩は敵意こそあからさまには表さなかったが、その態度や振る舞いから、由香里に与する者は敵とみなす、ということを暗黙の内に示した。

 それでも、始めのうちは同情して組んでくれる子がいたものだが、その子はたちまち目をつけられて由香里同様いじめられてしまうので、やがて由香里を庇う子は誰もいなくなり、一人ぼっちで端の方で体操をするのが習慣になった。終盤のタイムを計るときなど、由香里の番は最後だと暗黙の内に決まってしまっている。しかも、タイムを記録する下級生は由香里の分をやってくれない。仕方なく、先生が見ていないことをいいことに、でたらめな数字を書いている。タイムを誤魔化す不正行為ということになるが、誰も先生に報告する子はいない。

 部員達がやることは、由香里を徹底的に無視すること、それだけだ。

***

 そんな立場にある由香里だったから、午前の衝突のこともあって、練習中落ち着かなかった。

 しかし先輩達はいつもどおり、由香里と目を合わすこともせず、時折後輩達に激を飛ばすだけだった。

 結局、何も無いまま練習は終わった。
 終礼で、橘先生から、今週末に大会に出場するメンバーで市営プールを貸し切っての集中特訓をする、という話があり、由香里の胸は躍った。

――ようやく、思い切り泳ぐことができる!

 今日あった嫌な出来事から、解放される気分だった。

 しかし、そんな晴れやかな気持ちは、この直後に、打ち砕かれた。

***

 異変は更衣室で起きた。

 練習後、更衣室に最初に入るのは決まって由香里だった。

皆は終礼後、お喋りしながらだらだらと更衣室へ向かうというのもあるが、何より由香里自身が、皆と顔を合わせる時間を出来るだけ短くしたかったのだ。

 ところが、今日に限っては楠田先輩とその取り巻きの数人の三年生達が、由香里の入った直後にぞろぞろと入ってきた。

 嫌な予感がした。それは正しかった。

 下着が無くなっていた。ブラもショーツも両方とも。スポーツバッグの底の方まで探してみたが、間違いなく無くなっている。
 女の子というものは、男の目の届かぬ場所では、結構だらしないものだが、由香里に限って、かばんの間から下着が零れ落ちることなんて無いだろうし、ましてや、他の子の鞄に、間違って突っ込むなんてこともあり得ない。

 お嬢様育ち故か、どんなに急いでいるときでも、バスタオルから下着に至るまで全てきっちりと折り畳まなければ気持ちが悪い性質だった。

 考えられるとすれば……。

 由香里は後ろを振り返りそうになる誘惑に耐えた。その代わりに、気配に神経を集中する。背中に、先輩達の視線を感じる気がした。面白そうに瞼を細めた、意地悪な眼差しを。

 下着を隠したのは、先輩達に違いない。由香里は殆ど確信していた。今日の反抗を、やはり先輩は根に持っていたのだろう。それにしても、わざわざこのようなやり方をするなんて、いかにも楠田先輩がやりそうなことだ。

 下着を隠すことに限っては、大して難しいことではない。水泳部の更衣室はロッカー式だったが、水分補給をする際にしょっちゅう開け閉めするものだから、鍵を閉めないのが慣例になっていた。同性の荷物を漁ろうとする子なんて、普通は女子校にはいない筈だし、鍵をかけようものなら、却って目をつけられるような風潮があったのだ。財布などの貴重品はともかく、荷物を盗むことくらい、容易にできただろう。

 由香里は、バスタオルを水着の上に巻いたまましばらく固まっていた。手の震えに気づかれぬよう気を配りながら、息を整えた。

 そして、大胆な選択をした。

 由香里は水着を脱いでしまうと……下着を身に着けずにジーンズを履いたのである。先輩達が息を飲む気配を背後に感じた。
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