灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第四話『質量を持ち始めた悪夢――悲運の始まり』

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2011 / 06 / 07  Tue
由香里Ⅰ   
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 京子の手が肩に触れたとき、由香里は、驚きのあまり悲鳴を上げてしまった。その驚きようと来たら、シェイクを床に零してしまったくらいだ。京子はそんな由香里を、笑いを必死に堪えた奇妙な表情で出迎えた。

台無しにしてしまったシェイクの分を奢ってあげる――という、京子の強引な誘いを断るだけの余裕は、そのときの由香里にはなかった。
 数分後、二階席の四人掛けの座席に、由香里は一人座っていた。京子が注文する間に、適当な座席を取っておくよう頼まれたのだが、生憎二人用や一人用の座席は埋まっていたので、結局、なるべく人目に付かない、摺りガラスで仕切られた、奥まったところにある座席を選んだ。

 選んでしまってから、小さな後悔が頭を過ぎった。ひょっとしたら、今の状況に限っては人目の付く場所を選んだ方が良かったのかもしれない。

 後に、この直感が正しかったことが証明されるとは、この時点の由香里は考えもしなかった……。

 これから、この格好で、京子と面と向かって会話しなければならないのだろうか。そのことを思うと気が遠くなる思いだ。
 不安もあってか、由香里は通路側の席に腰掛けた。何かあれば、すぐに抜け出せる席だ。

――できれば、すぐにシェイクを飲み干してこの場を離れたいところだけど……。

 しかし、京子が持ってきたトレイの上には、コーラの他に、お節介にも二人分のバーガーとポテトが詰まれてあった。

 席に座るや否や、京子が投げかけた言葉は、由香里の疑念をさらに強めた。

「あら、いいの?その席だと目立つわよ?」

「……え?」

 何の脈絡も無く発せられたその言葉。京子は、由香里の座席が人目に触れやすい位置にあることを指摘したのだ。

 京子は電車での振舞いから、人の視線に怯えていた由香里の心理を、見抜いていた。そうでなければ、この唐突な言葉を説明出来ない……。
 さっと血の気が引いた。悪夢が質量を持って、目の前まで迫ってきたのだ。

***

 由香里は、座ったまま、何と返せばいいのか分からなかった。この場から逃げ出したかった。

「そこじゃ目立っちゃうでしょ?こっちに座ったら?」

 壁に面した座席のクッションをぽんぽん叩きながら、京子は無表情で由香里を見つめる。
 目立ったら何か悪いの、と鎌をかける勇気など、とても持てなかった。ただ、由香里が通路側に座っていることを、京子が望んでいないことが、その表情から何となく伝わってきた。

 弱みを握られたという意識からか、それとも単純に、京子を恐れていたのか、由香里は黙って、壁側の座席へ移った。

「これはシェイクの分ね。私の奢りだから」

 由香里の正面の席に着くと、京子はハンバーガーとコーラが乗ったトレイを押し出した。

 正直なところ、食欲はおろか、何かを飲む気にすらなれない。ただでさえこのような状況にある上、ついさっきシェイクを飲み干したばかりなのだ。それでも、動揺を悟られまいと、コーラに口を付ける。

 しばらくの間、気まずい空気が続いた。京子は自分から声を掛けることをしなかった。ただ黙々と、何か考え事をしているような顔をしながら、ポテトとバーガーを交互に口に運んでいる。

 由香里はその間、コーラをちびちびと飲んで時間を潰す。バーガーとポテトには手をつけなかった。コーラだけ申し訳程度に飲んでから、何か用事を思い出したと適当に口実を作って、この場から立ち去ろうと考えていたのだ。ただ黙々と、下を俯いてストローをちょびちょびと吸う。

「ポテトとハンバーガー」

 京子がボソリと呟いた。ただそれだけなのに、由香里の心臓は跳ね上がった。

「あ、……私、ハンバーガーとか駄目だから……」

 そう言ってから、ごめん、と付け加える。ポテトとハンバーガーが嫌いなのは、本当のことだった。尤も、普段の由香里なら、友達が奢ってくれたものなら、たとえ嫌いな食べ物でも無理してでも口に運ぶだろうが、今は口実にさえなれば、無礼だろうと何だっていい。

「ふうん、お嬢様のお口には合わなかったか」

 「お嬢様」という部分が、どこか当て付けがましく聞こえた。由香里に限らず浜崎女子学院の生徒は皆、世間一般からすれば「お嬢様」だろう。京子にお嬢様呼ばわりされる筋合いなど、無いのではないか。

 それからしばらくの間、京子と由香里は何の取りとめも無い――ハンバーガーが嫌いなのに何故ここに入ったの?だの、シェイクだけを飲みにこの店に入るなんて変なの、だの、やや動揺を煽られているような問いもあったが――話をした。、由香里は拍子抜けしてしまった。さっきまで、京子が自分の姿に気付いており、それをネタに脅迫してくる、といったようなことまで覚悟していたのに。
 由香里の考えすぎだったのだろうか。しかし、そんな楽観的な考えに至ろうとする度に、京子が席に着く際に放った意味深な台詞がよみがえる。
 まだ安心は出来ない。やはり本当に由香里の格好に気付いていて、それでいて何でもない会話を振っているのかもしれない。そうやって、平然を装って応える由香里を腹の底で笑っているのかもしれない……。

***

 京子は黙々と食べながら、殆ど独り言のような話をして、その度に由香里にコメントを求めた。芸能界やテレビ、学校の先生のことなど。
 普段殆ど接点の無い相手に対し、会話のネタを見つけてくる京子は、人見知りの激しい由香里とは対照的な人間だった。

 次々と飛び出す話題の中に水泳部の話題はひとつも無かった。
 京子が退部した頃から先輩達の横暴は酷いもので、その矛先は既に由香里に向けられていたから、由香里に気を使っているのだろうか。

 いや、それだけでなく、京子にとっても水泳部は話題にしたく無いのかもしれない。水泳部を辞めた後、京子が楠田先輩達と一緒にいるところを、よく見るようになった(由香里が電車で動揺したのも、京子と先輩のつながりを警戒したからだ)。おおよそ、辞めたことを理由に、目をつけられたというところだろうか。尤も、そうでなくても、先輩達に怯える水泳部員にとっては誰だって、水泳部はあまり気分のいい話題ではないのだ。

 何でもない話を続け、由香里はますます余裕を取り戻していった。ひょっとしたら、京子は単純に由香里と話がしたかっただけなのかもしれない、と思うようにすらなっていた。

 話題が尽きると、二人は黙々と目の前の食事を片付けるのみとなった。席についてから、十分は経った筈だ。もういいだろう。気まずい空気にもうんざりしていたし、由香里はコーラの残りを飲み干して、適当な口実で席を立とうと考えた。この頃には京子への警戒心もすっかり解けており、すんなり帰してくれるだろうと、楽観していた。

 コーラの最後の一口を口に運ぼうとした、その時だった。

「あ、ゴミがそっち行っちゃった。悪いけど拾ってくれる?」

 不意をつかれてからはっとして、体を後ろに仰け反らせて、足元を見る。確かに、くしゃくしゃに丸められたハンバーガーの包み紙が落ちている。テーブルに片手をつき、体をくねらせるようにして頭を潜り込ませる。包み紙に手を伸ばしかけたとき、由香里はようやく危うい事態に気付いた。

 この体勢だと、Tシャツの胸元が空いて、ブラをつけていないのが見えてしまう……。乳房に触れていたTシャツの布地の感触が無くなっているのを感じ、由香里は慌てた。

 体勢を戻そうとしたその拍子に、頭を思い切りテーブルの裏にぶつけた。ガーン、という大きな音と、テーブルの上に乗った物が倒れたり落ちたりする音が店内に響き渡った。

 頭上で京子が爆笑する。不運はそれだけにとどまらなかった。
 氷が散らばる音がしたと思うと、何かがごろごろと転がって、由香里のいるクッションに落ちた。氷とコーラが、由香里のすぐ隣に散らばった。

「きゃあっ!」

 由香里はジーンズが湿った感触と、お尻に感じた冷たさに驚いて、頭をテーブルの下に突っ込んだまま腰を浮かせた。座席はあっという間にコーラに浸水したようだ。きつい体勢のまま硬直する。

 京子はコーラが零れて由香里が慌てふためくのを見て、手助けするどころか、一層声を高めて爆笑している。

 頭を屈めたまま腰を浮かせる無理な姿勢に耐え切れず、由香里はお尻をクッションに沈めこんでしまった。ジーンズがコーラの池に着水した。
 お尻から太ももの付け根まで、びっしょりと冷たいコーラに浸る、いやな感覚。
 座席から脱出したときには、ジーンズはずぶ濡れになっていた。立ち上がって後ろに手を回して触ってみると、Tシャツの裾までもわずかに濡れてしまっていた。

 思えばこの失敗が、永い絶望的な悲運の連鎖の幕開けだった。

***

「ねえ、大丈夫?」

 ようやく笑いが収まった京子が、由香里に声を掛けた。泣きそうになるのを必死で堪えながら、大丈夫、と力無く答える。

「後ろ向いて、どれくらい濡れたか見てあげる」

 由香里は断ったが、京子は無視して椅子から立ち上がった。

 京子に背中を向けようとして、すぐに不安が過ぎる。京子に対して、再び疑念が沸きつつあった。ゴミを取る際に、由香里が慌ててテーブルに頭をぶつけたのも、コーラがそれによって零れたのも、偶然起こってしまった悲運に違いない。こんな仕打ちは計算して出来る事ではないだろう。

 だが、由香里が慌てたそもそものきっかけ、つまり、屈んだ時に胸元が空いてしまうことについては、京子は計算尽くだったのではないだろうか……。

「ねえ、後ろ、向いてよ」

 反応の無い由香里に、京子はもう一度声を掛けた。どこかとぼけたような、友好的に装ったような、そんな感じの声だった。
 裸の上にシャツとジーンズを着ただけの体をじろじろ見られるのには抵抗がある。相手が自分の姿に勘付いているかもしれないとなると尚更だ。

 だが、由香里には断ることができなかった。京子の声音には妙な威圧感があったのだ。

***

 由香里は黙ったまま、京子に向かって背中を向けた。
 京子が今じろじろと眺め回しているであろう、お尻の濡れた部分が暖かくなるような気がした。ある妄想が沸き起こる。濡れたジーンズが半透明に透けて、由香里の白いお尻を浮かび上がらせている……間抜けな由香里は、丸見えのお尻を京子に向けているのだ……。

 急にお尻に手の感触を感じて、由香里は飛びのいた。京子が、濡れ具合を確かめるように、ぽんぽんと、お尻を叩いたのだ。あまりべたべたと触れられてしまえば、下着を付けていないことが、ばれてしまうのでは無いか……。

「何ビクついてるのよ」

 由香里の慌てふためいた様子を見て、京子が白々しく言った。相変わらずとぼけた感じの声だが、やはり不思議な威圧感を伴っていた。

「もしかして、お尻のラインを気にしてるの?」

「……え?」

 由香里は思わず振り向いた。

「大丈夫、ばっちり丸見えだから。由香里ちゃんの可愛いお尻の形がくっきり見えてるよ~」

 京子は由香里の顔をしばらく見つめていた。それから、冗談、冗談、と付け加えたが、表情はにこりともしていなかった。 
 
 
 
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