灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第十話『体温 ――胸元に迫る男の手』

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2011 / 06 / 08  Wed
由香里Ⅰ   
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 ――いい物あげる―
 
 その言葉の響きに不吉なものがよぎる。

 先輩はカバンに手を伸ばし布の切れ端のような何かを摘みだした……。
 
 ――駄目!

 先輩はそれをくしゃくしゃに丸めると、オタク店員の手に無理やり握らせる。大人の男にしては子供っぽい、それでいて神経質そうな血色の悪い手に……。

 行方知れずになっていた、由香里のブラジャー。先輩はそのブラジャーを、由香里の目の前で、店員に握らせたのだった。
自分の下着が、男の手にあるなんて――しかし由香里にはどうすることも出来なかった。

 オタク店員は、おずおずと拳を開いた。くしゃくしゃになったその布切れが何なのか、すぐには分からなかったらしい。しかし――その正体に気づくと、うわあ、と情け無い声を上げて、それを床に落としてしまった。

 ああ、どうして……。
 あまりの事態に、由香里は顔を上げていることが出来なかった。オタク店員が呆然と固まっているのを、気配で感じる。気まずい沈黙が流れる……。
 由香里は、沈黙が破られるのが恐ろしかった。硬く目を瞑り、俯くことしかできない。

 「アァ……っ!!」

 沈黙を破ったのは、オタク店員でも、先輩でも無く、そして京子でも無く――由香里だった。

 突然激しい波に襲われ、由香里は思わず体を仰け反らせたのだった。原因はもちろん、先輩だった。シャツの薄い布の下、由香里の下腹部……そこを占領していた先輩の手が、突然由香里の敏感な部分を責めたのだ。

 一瞬置いたのち、再び、蠢く。

 由香里は腰を浮かせ、先輩の腕にしがみついた。唇を噛み、今度は何とか、声を抑えることはできた。それでも、由香里の只ならぬ様子にオタク店員が気づかぬ筈は無かった。

 店員からは、由香里の下半身の様子はテーブルに隠されて見えていない。しかし、不自然に由香里の下腹部に向かって伸びた先輩の片腕、そして先ほどの由香里の反応と先輩の不適な笑み……。目の前で何か淫靡なものが行われていることは想像出来た筈だった。

 恥ずかしい……。

 ああ、一体彼はどんな目で私を見ているんだろう。あんなオタク風の風貌をしていても、男は男。異性の目の前で、ブラを晒され、あそこを弄ばれて、声を上げるなんて……。

 由香里は勇気を出して、顔を上げた。そしてオタク店員の様子を目の当たりにして……戦慄した。

 店員は明らかに興奮していた。肩を揺らすほどに息を荒げて、鼻の穴を広げて、見開いたその目は由香里の顔と渡されたブラとの間を落ち着きなく行き来ししている。

 やがて店員は口をだらしなく開けたまま、先輩の方を見た。
 先輩はあいた方の手を由香里頭に回すと、由香里を撫で回しながら、小声で言った。

「それ、この子のよ」

 ブラを片手に店員がめぐらしているであろう想像は、由香里に恥よりも恐怖の方を喚起させた。あんなに上気していた体が、今度は途端に熱を失っていくような気さえした。

「――さっきから体調が悪くてさ、息が荒いし、苦しそうだったから、ブラを外して横にならせてあげようと思ったわけ。それなのに、あんた達は邪魔するって、一体何なのよ。さっきも言ったけど、元はと言えば、由香里の体調が悪くなったのはここのジュースに当たったせいなんだからね。分かってんの?由香里は……」

 先輩は再びねちねちと文句をつけはじめた。

「……っ!!!」

 ビクンッ!と、由香里の体が反り返った。また、先輩の指が「あそこ」に触れたのだ――

「……こんなに、苦しんでるんだからねっ!」

 先輩の声が、近くに聞こえる。

 ――もう……もういやだ!

 由香里は顔を上げて、店員の方を怒りを込めて、睨んだ。
 店員は若干驚いたようではあったが、それでも口元に薄く笑いを浮かべて、由香里の顔を観察し続けている。

 そうこうしているうちに、先輩の指が再び由香里のあそこを挑発しはじめた。今度は、転がすように、ゆっくり、ゆっくり……。徐々に速度を上げていく。
 快楽の波を全身に浴びながら、由香里は必死に堪えていた。先輩の手の動きを、阻むことすらせず、ただされることに対して、真正面から反抗した。
 性器を弄ばれながら、由香里は激しい屈辱を感じていた。そして同時にその屈辱を怒りに変えることで、闘っていたのだ。
 体に与えられる快楽に、何度も頬が緩みそうになる。その度に、怒りを喚起し、その怒りで何とか喜びを掻き消すのだった。

「この子の顔、赤いでしょう?」

 上気した由香里の頬を一方の手でさすりながら、先輩が店員に向かって言った。それに対して、店員は共犯者の笑みを浮かべる。反吐の出るような、卑屈な笑みを。
 それは、これまで、いじめに加担する部員達の中に由香里が何度も見てきた笑みと同じ類のものだった。

 唇を噛み、店員を睨み続ける。
 好奇に取り付かれている店員は決して由香里から目を逸らすことはなかったが、口元の笑みには、確かに由香里に対する恐れが混じっていた。

 先輩の指はどんどん加速していった。

 さすがに由香里も、店員を睨み続けるような余裕は失っていく。やがて目を瞑り、声を堪えるのが精一杯になった。
 顔を俯け……額をテーブルに押し付けるようにして……しかしそれでも……じっと耐え続けた。

「……負けない」

 由香里は今にも潰れそうな声で、そう言った。

「あんたなんかに……お前なんかには、絶対負けない……!」

 その声は先輩達に届いたのだろうか。心なしか、挑発は加速度をぐっと増したように思えた。

そしてとうとう、大きな波が――。

 とっさに先輩の腕をつかみ、陵辱を制止した。京子がふふ、と笑った。
 腕を押さえつけても、先輩は指だけで攻撃を続けた。由香里は尚も呼吸を止め、堪えるが……我慢できず、とうとう小さく声を漏らしてしまった。周囲の気配が、悪意に満ちた喜びに満ちる。
 渾身の怒りを込めて、先輩の腕に爪を立てた。
 ぎょっとした先輩が、ついに手を引いた。

***

 由香里のあそこはじんわりと湿っていた。
 シャツを整える振りをしつつ、さりげなく触れてみる。
 湿ってはいる。しかしそれは汗によるもので、いやらしい液体で濡らしたわけでは無さそうだった。覚悟は決めていたものの、結果的にはそこまでの痴態を晒さずに済んだことが分かって、由香里はほっとした。

 とにかく、由香里の股間はようやく先輩の手から解放されたのだった。

 しかし……由香里の心の芯は冷え切ったままだった。今まで掻き消してきた恥ずかしさが、どっと押し寄せてきた。
 こんなところで……あそこをいじくられ、いやらしい声を鳴かせてしまったのだ。
 激しい鼓動を止めることができない。顔がかあっと熱く燃え盛る。

 その脇では、先輩がのそのそとカバンをあさり始めていた。

 しばらくして、先輩は白い棒状のものを取り出した。
 そしてそれをまずはオタク店員に……それから由香里に向けて、まるでマジックショーの手品師がハンカチやらトランプやらをそうするように、順番に見せ付けた。

 体温計だ。

「この子の熱を計りたいの」

 先輩が言った。

「でも人がいるんじゃ無理でしょう?だからお客さんに言って、席を下に移ってもらってほしいのよ。それに、しばらく安静にしてる必要があるのよ。こんなうるさくてぴかぴかしたところじゃ、落ち着かないでしょ?店長さんに言って、しばらくの間二階を空けて欲しいのよ」

 先輩は、邪魔者を追い払うつもりなのだ……。
 由香里は先輩の狙いに感づき始めていた。つまり、邪魔者を追い出して、この場で、これまで以上に熾烈な陵辱を続けようというのだ。
 先輩は、性的倒錯者なのだろうか。そうではないことははっきりしていた。由香里を辱めるときの先輩の笑いは、性欲が満たされるときのものとは別種のものだった。

 ただ、自分の敵を貶め、汚したいのだ。自分の憎き相手に、無様な思いをさせる悦び……。さきほどの恥辱ショーで、その欲望は勢いを増したに違いない。そして欲望を完全に満たすために、今、こうして舞台を作り上げようとしているのだ……。

 おぞましい執念。

 しかし――意外にも、彼の歯切れは悪かった。

 ひょっとして、二階を空けた後、由香里が先輩にされることを、心配しているのだろうか……。
 先輩は、苛立った様子でしばらく店員に突っかかっていたが……突然だった。由香里を乱暴に抱き起こした。

「いや……っ!」

 凄い力だ。息も絶え絶えで、精神的にもぎりぎりの由香里では、到底太刀打ちできなかった。
 先輩は肩に手を回して、由香里の動きを封じながら、シャツの襟を掴むと、引っ張るようにして、乱暴に巻くって見せた。胸元を、露にしてみせたのだ。

 その乳房の頂までは、見えていない。しかし、捲くられた襟首からは、柔らかい白い乳房が露出していた。

「だったら……」

 先輩が、開き直ったような笑いを浮かべながら言った。

「あなたが協力してくれないなら……ここで今、こうするほかないよねえ~……っ!」

 服が、びりびりと音を立てた。破れてしまうんじゃないかというほどの、凄い力だ。
 悲鳴など出なかった。氷水を浴びせられたようなショック状態……由香里は藁をもすがる思いで店員の方を見た。

 彼は……笑っていた。目を見開いて。

 ようやく、由香里は誤算に気づいた。このけだものは、由香里を心配して先輩の要求を呑まなかったのではない。ただ単に、この千載一遇の現場から自分が退場させられることが、不満だったにすぎないのだ。

 由香里と同じく、先輩もそれに気づいたのだろうか。

 引っ張っていたシャツの襟首を口に預けて。開いた手で体温計を店員に渡した。

 現れた、白いミルクのような柔肌。そこに、筆で線をすっと引いたかのような腋が見て取れた。店員は震える手で、体温計を近づけていった。

 店員の顔が数十センチ先にまで近づく……、由香里は絶叫したい思いだった。が、声が出ない。
 他の客に聞こえてしまうことを、この期に及んで恐れていたのだ。

 もしこのとき叫んでいれば、他の客が異変に気づき、結果的に由香里はこの地獄から解放されていたに違いない。しかしどういうわけか、由香里は恐怖の絶頂にあるにも関わらず、それにも負けないほどの強靭な理性が――不幸にも――味方してか、助けを呼ぶということをしなかった。

 ただ唇を噛み締め、目を瞑り、時間が過ぎ去るのを待ったのだった。
 体温計の冷たい金属が腋に触れた。
 先ほどまでの恐怖はすうっと引いていった。
 店員の手先の震えが、体温計を通して伝わってくる。
 変にくすぐったくて、身を捩じらせた。
 体温計はさらにぐいぐいと、腋の間にねじ込まれた。はじめは抵抗があったが、細くなっている部分を過ぎてしまうと、一気にすっと「挿入」されていった。居心地の悪い羞恥がますます高ぶり、顔をしかめた。

 とうとう体温計が奥まで入り込んだとき、オタク店員の爪が由香里の肌に触れた。

「汚い」

 怒りと嫌悪感から、由香里はそう呟いた。
 その言葉が店員に聞こえたことが、体温計からその手の力がさっと消えたことから分かった。

「……変態」

 さらに追い討ちをかける。薄目を開けてみると、店員は酷く狼狽した様子だった。傷ついた様子の店員を確認してから、かすかな勝利を感じつつ、由香里は瞼を閉じ、きっと彼は、過去に同じような台詞を散々言われていたに違いない、などと思った。

 そのときだった。

 突然、腋から体温計が引き抜かれた。

 先輩が由香里を離した。伸びきったシャツを調えながら、オタク店員のいたほうを見る。
 体温計を手にした店員が、目を見開いて、由香里を見下ろしていた。

「……や、やっぱり……」

 驚く由香里達を、怒りのこもった冷たい目で見下ろしながら、店員がぼそぼそとした声でしゃべり始めた。

「体調が優れないようなので……。言ってみます……店長に……」

 一瞬その意味を理解できなかった。しかしすぐに思い至る。先ほどの先輩の要求のことだ。

「これからはどうぞお二人で……」

 店員がぎこちない笑みを浮かべるのを見て、由香里の背筋が凍った。

「お、思う存分……」

 店員は足早に去っていった。

 ああ……先ほどの言葉への「復讐」だ……。由香里はすぐに理解した。
 どういうわけか、さっきの言葉に傷つけられた店員は、貴重な女体を弄ぶ機会を犠牲にしてまで満たしたいと思うほどの激しい復讐欲を抱いてしまったようなのだ。
 彼は、まだ会って間もない由香里に対して、突如得体の知れない悪意を抱き、そしてそれを成就すべく、今まさに動き始めたのだ。
 そう、先輩という悪魔の前に置き去りにするという、背筋の凍るような悪意を。

 しばらくしてから、曲がり角の向こうで話し声が聞こえ始める。店長らしき男と店員が何やら話し合っているようだ。おそらく、由香里達のいる席を指差しながら、たどたどしい言葉で、事情を説明をしているのだろう。

 ――ああ、どうか店長が、馬鹿げた要求を鼻で笑いますように……。

 しかし、由香里の願いは届かなかったようだ。

 店長ははじめのうちは渋っていた様子ではあった。しかし、店員のあまりの執拗さに折れたのだろうか。しばらくすると、曲がり角の向こうで、店長と店員が二人がかりで、周囲の客に何か話しかけ始めた。
 先輩の要求が、実現に向かおうとしているのだ……。
 
 由香里はぞっとせずにいられなかった。
 今からものの数分で……この階からは、先輩と京子以外の人がいなくなる……。
 先輩はもはや、周りの目を気にする必要は無くなるのだ。
 
 由香里は、店員の冷ややかな目つきを思い出した。
 汚い、不潔、というあの言葉……彼にとっては何か特別な意味を持つ言葉だったのかもしれない。どうやら、由香里はオタク店員の怒りを買ってしまったようなのだ。そしてその復讐の手段は……

――これからはどうぞお二人で……。

――思う存分……。
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