灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第二十一話『踊る体――マスターベーション』

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2013 / 04 / 04  Thu
由香里Ⅰ   
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 由香里は男を見上げた。
 この醜い生き物と、まるで世界中の人びとから隠れるように、一緒になって息を荒げている自分に、たとえようのない自己嫌悪が湧き出す。

 由香里は、いつの間にか太股を男の側頭部に押し当てていることに気づいた。
 脚を、そっと開く。
 男は舌で舐るのをやめ、顔を上げた。乳首をいじる動きが止まった。

 こんなことをされている相手と目が合っているのに、羞恥も怒りも感じなかった。
 男は、挑むような表情で、由香里を見つめている。

 とっくにピークに達しているはずの鼓動が、更なるピークへと高まった。
 わけのわからない感情で、胸が爆発しそうだった。
 その感情の正体は、とうの由香里にもわからない。

 敢えて名前をつけるなら、悲しみだろうか――。

 テーブルの下に、足を引き込んだ。体の位置がずれていたためか、今度は上手く収めることができた。
 男の裸足の脚を見て、何て弱弱しいんだろう、と一瞬思う。

 由香里はその足で、男の顔を蹴った。

 もちろん、そこに力は篭っていない。
 拒んでいるのか、誘っているのか。

 男もその答えを知っているかのような、意味深な笑みを浮かべたまま、何をすることもなく、ただ由香里の顔を眺めるのだった。

 甘い誘惑が、由香里をおかしくしていた。
 その誘惑を、由香里はつい先ほど、先輩にも感じていた。
 自分を玩具のように、屈辱的に扱う相手に対して、全てをゆだねてしまう愉悦。

 屈服するか、抗うか。
 そんな酷い決断ができるはずなどない。

 それなのに、男は敢えて愛撫をやめて、脅すわけでもなく、かといって許すわけでもなく、まるで傍観者のように、由香里を見下ろすことしかしないのだ。
 汚れきってしまった自分にとって、つまらない意地など、必要ないように思えた。男と「友好的」に、男女の肉体的な楽しみにふけったところで、今の自分には大したことではないのだろうか。
 しかし一方で、今の自分の姿が、たまらなく恥ずかしくて、悔しい。

 体を触ってほしい。
 由香里を苛めながら、慰めながら、あの何にも代えがたい快感を与えてほしい。
 そう願いながら、一方で、とてつもない悲しみと怒りが胸に溢れ、涙が際限なく流れ続けている。
 たまらない気持ちになって、訴えるように、自分をもてあそぶ男の顔を蹴るのだ。

 由香里は、自分が壊れてしまったように思えた。
 男の支配欲は満足したらしい。
 腿裏に手をやると、今度は太ももごと由香里の下半身を抱きかかえた。
 由香里は抗うこともなく、そのまま男のしたいままの格好にされていった。

 男は悠々と愛撫を再開した。乳首を指でなぞりながら、アヌスを舌で舐める。
 由香里は屈辱と、怒りと、悲しみをかみ締めながら、快感に酔い、己を慰めた。

 男は由香里が抵抗の意思を失ったのを見ると、腿裏に回した腕で器用に束縛したまま、その手で器用にヴァギナに指を押し当て、静かに愛撫した。

 由香里は楽器のように抱きかかえられながら、体の上下をいじられ、子猫のような声で鳴いた。

 男は男で、自分の愛撫に対して、女が音を鳴らすのに酔っているようだった。
 次第に、激しさを増していく。

「ああん……」

 肺の底から吐きだされた息とともに、ハスキーな声が頭の奥で響いた。

 堰を切ったように、由香里はもはや躊躇うことなく、いやらしい声をテーブルの下に響かせた。

 三つの性感帯を一度に責められる、快感ときたら、とてつもないものだった。

 みっともない。
 動物みたい。

 そう自分を罵りながら、由香里は完全に男に身を預けた。

 男は、時折ヴァギナの指の動きを止めた。
 すると、由香里は男の手から逃れるように、下半身を揺らす。
 しかし、本当は、逃げているのではなかった。
 自分から、男の手にこすり付けているのだ。
 男が意地悪をして、手のひらを上へやって離してしまうと、それに対して吸い付けるように、由香里は体を持ち上げるのだった。

 男もそれを知った上で、まるで忠誠心を試すように、動きを止めるのだった。
 そのたびに体中から生気が吸い取られる。
 自分が「成ってしまったもの」のありさまを、思い知らされる。

 ただの奴隷ではない。奴隷であることを望んだ奴隷なのだ。

 しかし、もう引けない。

 心で泣きながら、男の悪ふざけに対して、無様な姿勢を見せ付けることで喜ばせた。
 少しずつ、男が手を離す時間は長くなった。

 あるとき、男の手は、完全に動きを止めてしまった。
 そればかりか、由香里の届かない場所にまで、指を持ち上げるのだ。
 いつの間にか、アヌスと乳首への責めも無くなっている。
 男は堂々と顔を上げて、由香里を見下ろしていた。

 由香里は初めてためらった。

 男が、歯を見せて笑っているのが、瞼を閉じていても分かる。

 こんな奴に、いいように、玩具にされて――。

 情けない。

 だが、その屈辱が、由香里のからだを燃やし、働かせるのだった。

 由香里は手を伸ばし、男の手の甲を引き寄せた。
 彼の指が、びっしょりと湿っていることに気づいた。

 そして――。

 自分のヴァギナに、ぴったりと押し当てた。
 のみならず、男の指を、秘唇にあてがった。
 そして、その上から自分の指を重ね、下半身を捩らせながら、亀裂を擦った。

 由香里は情けない自分を見てほしくて、瞼を開いた。
 男が嘲りの笑いを浮かべていた。由香里も、卑屈な笑みでそれに答えた。

 由香里の中で、何かが、崩れ去った。逆さになった心臓が、バターのように溶けて、今にも喉から溢れそうだった。

 そして、由香里は男の手の下で、思う存分マスターベーションをした。

「あっ……あん……」

 暗い空間に、由香里のはしたない声が小さく響いた。

 由香里を束縛していた何かは、完全に取り去られていた。

 全てを捨て、完全に裸になって、目を見開き、声を上げることも躊躇わず、自慰をすることの、何と甘い快感だろう。
 由香里はしばらく、男の蔑んだ視線を「エサ」として快感を高めていたが、次第に瞼を閉じて、ただひたすらに自らを愛撫した。

 肉体的な愛撫だけで、境地に至るのは難しい。
 だが、由香里の場合、この異様な状況が、敏感にさせていた。

 恥ずかしい。
 私、男の前で、自慰している。

 声を出して――。
 ある時点で、急に指のすべりがよくなった。
 往復は途端に早まり、それにあわせるように、快感がせり上がり、押し寄せてくる。

 狂ったように激しく、由香里は男の指先を擦りつけ、もぐりこませた。

 そして――。

 とうとう、由香里は、最後の姿までを、男に晒した。
 口をあけて、とろんとした目で、顔を上気させた顔で、由香里は男を見た。

 何故か、この男に処女を捧げたような錯覚に陥る。
 むろん、そうではなかった。

 今や男は由香里の体を縛り付けてはいなかった。
 由香里の肉体にまともに触れているのは、僅か指二本だけだ。

 由香里は「愛撫された」のですらなく、自ら自分を、愛撫したのだ。
 男をいやらしい器具のように使って、「見せ付けた」のだ。

 急に、自分のいるテーブル下の狭い空間が、寒々しく感じられる。

 なんだか、周りの空気が、自分を蔑んでいるように思えた。

 どろりと、糸を引きながら、由香里の恥部から愛液がこぼれた。
 
 それは由香里の腹に落ちた。

 抱いてほしかった。

 愛情を求めたわけでは、もちろんない。
 ただ、感じたかったのだ。
 男の指で再び擦り始めた。
 だが、快感は高まりそうな気配を見せて、すぐにひいてしまう。

 それでも、由香里はマスターベーションを続けた。

 全てを見せ付けた後の、つらい現実に置き去りにされるのが、怖かった。
 男の一言が、怖かった。
 人が去って、一人ぼっちの空間に裸で堪える気力がなかった。

 空しい自慰行為を、男は手首を掴んで制した。
 由香里の魂は、汚れた体に引き戻された。

 ――消え入りたい。

 男は無言で、まっすぐに由香里を見つめる。
 由香里は、しかられた子供のように、顔を逸らすことしかできない。

 男が、両手をヴァギナへやった。
 見ると、丁寧に、秘唇を押し開く。

 愛液の溜まっていたものが、こぼれた。

 それが糸を惹いて、由香里の腹に落ちる。

 愛液は、いつまでもいつまでも溢れ続けるように思えた。

 身をよじらせる。

 自分のやってしまった行為の痕跡が、恥ずかしくて、恥ずかしくて、ミミズが土に潜るかのように。
 それが溢れきってしまうまでの長い時間が、男から与えられた罰のように思えてしまう。
 そんな資格などあるはずがないのに。

 男が、愛撫の末にぬめぬめと湿った指を、由香里の前に差し出した。

「綺麗にしろよ」

 その濡れたものが、由香里の唇に触れて、思わず顔を背ける。

「汚くなんかないよ」
 男は言った。

 ――嘘だ――。

 泣きたかった。

 ――汚いよ

 由香里の顔を、もう一方の手で掴み、男は自分の方へ向かせた。

「半分は、君が汚した」

 無理やり指を咥えさせると――自分はこっちだ、といわんばかりに、男は由香里のヴァギナを舐め始めた。

 媚声を出しながら身を捩らせる由香里を追いかけて、男は容赦なく、指を押し込む。

 由香里がためらいがちに、舌で、ぺろりと撫でた。
 男はそれに満足したのか、由香里のヴァギナに唇で蓋をするようにして、愛液を啜った。
 のけぞる由香里を、男の指が追いかけて、由香里はえずいた。

 男の指を大口を開けて迎え入れる由香里は、さぞかし間抜けな顔をしていることだろう。
 こちらの表情を見下ろしながら、男が侮蔑の色を浮かべるのを、由香里は見た。

 決して愛し合ってはいない男女の、醜い舐めあいが終わると、男は由香里に話しかけた。さっきまで階下の人間への配慮などまるで頭から消えていたくせに、今更になって、声のトーンを落としている。

「君、名前、何ていうんだっけ?」

 男の質問に、由香里は、底知れぬ恐怖を感じた。

 気づけば、由香里はウソの名前を言っていた。

 頭に浮かんだ、ある人の名前。
 不思議だった。信じがたいことに――。

「朋子」

 怯えながら、しかしはっきりと、由香里は言った。
 男の目をまっすぐ見ながら。

 男は、ともこ、とぼそりと繰り返した。
 言ってしまってから、由香里は男が自分のウソに勘付くのではないか、という考えがよぎった。男の前で、先輩は何度も、自分の名を呼んだはずだった。

――由香里はねえ!こんなに苦しそうにしているのよ!!!

 由香里の体調が悪いことを口実に、店員に迫る先輩の声。
 つい数時間前のやりとりとは信じられない。まだきちんと衣服を着て、少女としての意識をぎりぎり保っていた、最後の時間。先輩達の悪意に絶望しきっていたあの頃が、今となっては、天国のように思われる。その光景は、むしろ幸福だった過去としてありありとよみがえった。

 由香里にとっては特別な時間でも、店員にとってはそうでもなかったのだろうか。オムツを替えられる赤ん坊のような格好の由香里を見下ろし、口元を歪めながら、男は、正直者だね、と呟いた。

***

「暗くて、顔が見えないな」

 店員の含みのある声音に、由香里はのけぞった。

 男の心の波を感じ取るのも、女の勘、なのだろうか。
 満足しきったはずのオタク店員の心の中に、むくむくと、新たな野望が立ち上がるのを感じ取れた。

 男は由香里の体をしっかりと押さえつけたまま、片方の手でポケットを探りはじめると、あるものを突きつけた。
 暗くて、よく見えないが、見覚えのある形。
 
 そのとき、青白い光がテーブルの下を照らした。
 悲鳴を上げたくなるような光景だった。
 光は、一人の欲望にまみれた男の顔を――それも、つい先ほど男になったばかりの男の顔を浮かび上がらせた。

 男は、携帯を取り出したのだった。タッチパッド式のものだ。

 男が何をしようとしているのか、考えるまでも無いことだった。

 いやっ!――いやっ!――それだけはっ――。

 こんな格好を撮られるなんて――。

 絶対に――。

 しかし、男は由香里を完全に支配していた。由香里の下半身は柱に縛りつけたまま、器用に携帯のボタンをいじっている。あれだけ陵辱しておいて、何故――。

 由香里は、男を蹴り上げようともがいた。
 もがけばもがくほど、男は由香里をきつく拘束する。
 男は鼻息を荒げながら、素早い指裁きで携帯をいじくり――。

 フラッシュがたかれた。

――いやあぁっ!

 悲痛な叫びとともに、由香里は男をビンタした。

 男はにやにや笑いながらのけぞって、それを凌ぐ。
 携帯のボタンを器用にいじくりながら、由香里の背中や尻を嘗め回すように見ながら、笑っている――。

 由香里がのけぞった男の手を蹴り、携帯が吹き飛んだ。
 それは、男の肩の上を通り抜け、廊下を滑った。

 男は舌打ちをして、携帯を拾うために振り向こうとした、そのときだった。

 階段を、やや早足で登ってくる足音。

 しかも、殆ど登りきっている――。

 一瞬、由香里はそのことの緊急性に頭が回らずにいた。

 オタク店員が狼狽し、慌てて携帯を拾い上げて、そのまま尻のポケットに突っ込むのを見て、ようやく気づく。
 第三者が来たのだ。

 第三者が。

 二人目の男が――。

 男の足音が、階段を登りきり、こちらに方向を変えた。

 どうしよう――!

 どうしよう!

 人が来る。

 男と同様、慌てふためく自分がいるのと同時に、違和感を抱く。

 自分は、レイプされているのだ。ついさっきまで、地獄に泣き叫んでいたのに、人が来たとたん、自分を犯した相手と一緒に慌てふためくなんて。

 私は、この見知らぬ誰かに、助けを呼ぶべきなのだろうか。

 しかし、全身が叫んでいた。

 隠さなきゃ――

 由香里は足を引っ込めた。だが、今度は、その隠し場所に迷う。

 そうこうしているうちに、足音が、曲がり角に近づいてくる。
 足音はさっきのものと比べてやけに軽く、由香里はそれが女のものだと気づいた。

 身を隠す時間など無いに等しかった。由香里が足裏でテーブルの天上を蹴りながら体を何とか隠したのと、曲がり角を曲がったのは、ほぼ同時だった。

 曲がりきってすぐ、足音の主は歩みを止めた。

 そばに立っている男が、足音の主の方を見ながら狼狽するのを感じ取った。

 数秒の間。

 見つかった――?

 柱を股に掛け、脚を開いた惨めな格好で、由香里はテーブルの下で息を潜めていた。足はテーブル裏ぎりぎりのところでつま先立ちになって、膝が笑いを堪えるように震える。

 足音の主が、口を開いた。

「鈴村さん、何やってるんですか」

 女の声だ。

 知らない女の声。
 先輩ではない。

 ほっとすると同時に、落胆している自分がいる。
 この人は、「蜘蛛の糸」にはなりえない。

 いくら相手が女でも――いや、女だからこそだろうか。
 今の自分の姿を晒すなんて、できっこない。

「聞いてるんですか!」

 心臓が、縮み上がる。

「い、いや、……その……」

 オタク店員が、応えた。情けないほど、狼狽している。

 曲がり角と廊下の行き止まりで、二人は会話し始めた。
 どうやら、由香里の気配は勘付かれなかったらしい。

 少なくとも、今の時点では。

 女が、足を踏み出した。
 こっちにくる――!

 由香里の体が、テーブルの下から少しでも覗いてしまえば……。

 必死に、テーブルの裏を、音を立てないように気を配りながら、強く蹴り、尻を廊下から遠ざける。踵がはみ出さないよう足を立てようとすると、一瞬ずるりと足の指が滑りかけた。

 お尻がぐいと、テーブルの端に近づいた。

 しかし、店員は気づいた様子もなく、押し問答を続ける。
 その間、女店員はゆっくりゆっくりと、歩を詰めていく。

「いつまで探してるんですか。コウジさん怒ってますよ」

 女の声は、明らかに若い。由香里よりは年下のようだが、強気な振る舞いそれを感じさせない。仮にも先輩であるオタク店員に対して、ぞんざいさを隠そうともしなかった。

 何故か、女の声を聞くのは随分久しぶりのような気がした。

 傍に女がいるというのは、落ち着かない。
 これなら、男の方が、まだ良かった。
 女の声が響くたびに、由香里の心臓はすくみ上がる。
 自分を先ほどまで犯していた男を前に、ひやひやさせられるほど堂々とした女。
 薄暗闇に身を隠し、股を開いたあられもない姿でいる自分。

「とにかく、すぐに戻るよ」

 じわじわと近寄ってくる女店員に危機を感じたのか、オタク店員、もとい鈴村は強引に話しを切り上げようとした。早足で、自分の前を通り過ぎようとするのを気配で感じる。そのときだった。

「ちょっと待って」

 女店員は、それを制したので、オタク店員は、由香里の姿を庇うように立ち止まった。

「結局、女の子は見つかったんですか?」

 女の子、というのが自分のことであることに、疑いの余地はない。

「それが――もう、帰ったみたいだね」
「ふうん。変なの」

 オタク店員のおどおどしたしゃべり方は、由香里には不審には思えたが、女の声には疑う様子はなかった。きっと、普段から似たようなしゃべり方をしているのだろう。

「トイレにも、いなかったみたいだし」

 鈴村は付け加えながら、さりげなさを装いつつ、歩を進めようとしたが――

「トイレと言えば」

 女店員がそれに構わずさらに話しかけたので、再び歩みを止めてしまった。

「トイレと言えば、掃除用具入れに入ってた不審物ですけど――」

 不審物――?。

「水着とか、私、隅々まで見ましたけど、結局名前が入ってませんでした。学校くらいは大体特定できそうだから、明日あたり連絡してみるって、店長は言ってましたけど――」

 体を支えている足が、がたがたと震える。
 バランスを失わないようにするので、精一杯だった。

 やはり、トイレに着替えはあったのだ。

 先輩は、由香里が自力でそれを見つけ出すことを狙ったのだろうが――。失敗した。

 この店に、身を隠す衣服は、もはやないのだ。
 完全に、素っ裸のまま、放置されてしまった。この暗闇の中に。

 どうやって、帰るというのだ。

 こんな状況だというのに、いや、こんな状況だからこそだろうか、暗黒の未来を告げられた由香里は、激しく揺さぶられた。逃げて逃げて、逃げ続けても、この暗闇に出口はないのだ。
 誰かにこの身を晒すほかに、家へと帰る道などないのだ。

 二人の店員のやりとりも、放心状態の由香里には、届かなかった。
 いつの間にか、足から力が抜け、由香里のぴんと倒立していた下半身がたるんだ。
 尻に、オタク店員の膝裏が触れて、ようやくはっとする。

 隠れなければ。
 帰り道が無くなったからといって、自暴自棄になってはいけない。

 由香里の狼狽を読み取ったのか、オタク店員が体をずらして、必死に由香里の体が見えぬようにしているのが、気配で感じられた。

 タク店員の盾から抜け出して、女店員の足元に、縋りつき、助けを求めたかった。思い切り、声を出して泣きたかった。

 だが、そんなわけには、いかないのだ。

 プライド。

 再び脚に力を込めると、ざらざらしたテーブルの裏を蹴って、お尻を引っ込める。

「そ、そうかわかった」

 オタク店員が、うわずった声で言う。

「それじゃあ、とにかく、戻ろうか……」

 オタク店員が、足を踏み出そうとした、そのときだった。

 ピコン、と、電子音が鳴り響き、由香里の心臓は跳ね上がった。

 カメラだ。
 携帯のカメラ機能。鈴村が撮影を開始する準備をしたままポケットに入れた携帯が、何かの拍子に、撮影を始めたのだ。タッチパッド式の携帯なら、軽い拍子で反応してしまうこともありうる――。

 由香里のすぐ傍で、鈴村が慌てふためいている。ごそごそと、ポケットを探る気配がした。

 女店員の方は、全くの無言だ。先ほどの電子音は、携帯の着信音にしては異質だが、特に、不審がるほどのことでもないらしい。

「仕事中に、何携帯持ち歩いてるんですか……。コウジさんに知れたら……」

「すみません」

 鈴村はこの場から女店員を押し出すかのように、彼女に向かって歩み始めた。

 女店員も、それに続いて曲がり角に向かって引き返し始めたので、由香里はほっとした。

 何とか、やり過ごせたようだ――と。

 甘かった。

 ビリビリ、という大きなバイブ音が、暗闇に鳴り響いた。
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