灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第十七話『魔女の手紙 ―― 第二の男』

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2012 / 09 / 18  Tue
由香里Ⅰ   
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 男は確かに振り向いた。
 だが、由香里が見たのは、男の顔がこちらへ回りだした最初の数秒にすぎない。

 あの瞬間、由香里はティッシュの回収を諦め、素早く身を翻し、引き返したのだった。
 だから、見られていない筈だ。
 もし見られていたとしても――その場合ですら、考えたくも無いが――右側へ去っていく由香里のお尻か、背中くらいのはずだろう。
 もし何らかの気配を感じ取られたとして、見間違いだと思ってくれれば――。
 暗闇の中で柱を抱きながら、由香里は祈っていた。

 由香里はテーブルの下に身を潜めていた。廊下を折れ曲がって、五つあるうちの、手前から三番目の席。テーブルを支える二つの柱。その隙間に座り込み、廊下に背中を向け、額を壁側の柱に押し付けて、祈っていた。

 先輩に全て晒してしまっていたとはいえ――男にだけは、見られたくない。それは、汚辱され切り刻まれたからだに唯一残った希望であった。少なくとも、まだ男にまでは、女を売り渡してはいない、裸を見せてはいない、と。
 少なくとも、今の瞬間までは。

 どうか、あのまま引き換えしてくれますように――。

 太ももで冷たい柱を挟み、乳房と一緒に腕で抱きかかえるようにして、精一杯の防御の姿勢をとった。いざとなったら、クッション席と背中の柱が、自分の臀部を隠してくれるはずだ。もっとも、両手のひらで覆えるほどの太さの華奢な柱で、由香里の豊満な体を隠しきれるはずもないが。

 祈りながら、後悔する。何故、もっと奥のテーブルに隠れなかったのだろう。
 だからといって、今更仕切りと天上で囲まれた半密閉であるこの空間を飛び出す勇気などあるはずもない。

 不安とは裏腹に、二階には物音一つ聞こえなかった。やはり、あの男は、あの後一階に戻ったのだろうか。
 だとすれば、少しは希望が見えてくるのだが。

 上手くトイレに逃げ込めば……。いや、そんなことをしても、何の解決にもならない――。

 そのときだった。

 コン、コン。

 ノックの音。しかしそれは、遠くの方で鳴り響いた。
 続いて、もう一度。さらに、なにやら呼びかける声。
 あの男の声だった。

 トイレをノックする音だ。続いて、ドアのきしむ音。

 トイレを調べているのだ。

 しばらくして、めりめりと、シューズが廊下を踏む足音。少しずつ、大きく、はっきりと聞こえてくるようになる。
 足音はそのままフェードインしてくる。階段を下りるのではなく、直進し続けているのだ。

 来る……。

 由香里は、自分が恐れているのかも分からなくなっていた。認識できたのは、心臓が異常な速さで胸を叩いていることだけだった。現実感が、まるでない。
 足音が、急にはっきりと聞こえるようになったと思った次の瞬間、止んだ。曲がり角まで来たのだ。
 恐らく、角から背伸びして、座席を見ているのだろう。

 曲がり角からここが見えるはずは無いのに、由香里は背中をじろじろといやらしい視線で嘗め回されているかのような気がした。

 そのまま、引き返してくれる可能性は低くなかった。だがその一方で、先程の、トイレがノックされるまでの間が気になった。あの数十秒の間に、店員は何をしていたのだろう。もしかして、こことは反対側の座席を、一つ一つ、覗いていったんじゃないだろうか。
 店員がこちらを確かめ始めたとき、どう動くべきなのか、由香里の中に答えはなかった。もし座席の真横に来たならば、店員は、テーブルの下にいる由香里に、気づくだろうか?かなり微妙だった。あの店員は、背が高かった。また、部屋は薄暗い。テーブルの横幅は狭いが、それに面した廊下の幅も狭い。上からの、見下ろすような視点なら、気づかれない可能性も無いとはいえない。
 だが、その可能性に賭けるべきなのか。
 由香里には、声を出して、慈悲を請うという選択もあった。
 店員は、あのティッシュを見つけたはずだ。由香里達の異変に気づいたはずである。そもそも、先輩の、二階席を丸々乗っ取るようなあの態度だって、不可解には違いないのだから。だから、由香里が現在の状況を説明して助けを求めたとしても、比較的受け入れやすいに違いない。
 それでも、由香里にとって、現状を誰かに報せるということは、耐えられないことだった。由香里には、羞恥心と、それと同じくらいのプライドがあった。また、この場合には不幸なことに、現在のような、普通の少女なら耐えられないであろうほどのプレッシャーに堪える心臓の強さも備えていた。

 裸の姿を見られるか、助けを呼ぶか、いずれにしても、事態が公になることに違いは無いのだ。

 足音が再開したとき、遠ざかるか、近づくか。
 それが、運命を分ける。

 由香里は柱に巻きつけていた手を広げた。壁に手をつき、膝を立て、背中を限界まで逸らせた。胴体と壁の密着を阻む柱がなければ、さながら本にはさまれた蜘蛛だ。なるべく体を壁に近づければ、少しは見つかりにくくなるはずである。

 そのとき。

 シューズの底が床から剥がれる音がした。そしてそれはそのまま……。

 遠ざかっていった。

***

 信じられなかった。ここに来てようやく、仏が慈悲の手を差し伸べてくれたとでもいうのだろうか。
 へなへなと、力が抜ける。助かった。

 そのとき……。

 唸るような不快な音が鳴り響いた。
 同時に、腹部に抱えた柱が、意志を持ったかのように急に震え始める。
 油断しきっていた由香里は飛び上がった。

 バイブは一度だけコールして、鳴り止んだ。

 音の正体は分かっている。携帯だ。手で探ると、柱と壁の間に、折りたたみ式の小さな携帯が置かれていた。

 あんなに、捜し求めていたものだ。最悪の状況における、最後の切り札。
 だが、はしゃぐ気になどなれやしない。むしろ泣きたい気持ちだった。
 思ったより早く携帯が見つかったのは良かったが、柱に触れた携帯から発せられた振動音は、暗闇では良く響いたことだろう。驚いた拍子にテーブルに頭を打たなかったのは、不幸中の幸いだったが、それでも、店員の耳に届いた可能性は高い。

 待つべきだろうか。その間誰も来る様子が無ければ……。
 行こう。
 行くしか、ない。
 本音を言うと、ずっと、テーブルに潜っていたかった。裸のままあの廊下に飛び出すなど……。
 だがこの場でじっと身を潜めるということは――。
 四、五、六……。
 由香里は、わずかな物音も逃すまいと、精神を張り詰めた。

 二十一、二十二、二十三……。

 物音は、ない。
 だが、突如暗闇を揺るがした、バイブ音の、呪いのような残響は、いつまでも少女の骨を震わせていた。

 猜疑心が慎重を促す一方で、別の警戒心が由香里をそそのかしていた。

 今が、最後のチャンスかもしれない。携帯は見つかった、思い切って、行け――。

 トイレに飛び込めば、少なくとも、鍵付きの部屋が得られる。あわよくば、服も見つかるかもしれないのだ。
 分かってはいても、きっかけがなかった。足音こそ無かったが、階下から聞こえてくる音がわんわんと聞こえてくる女子高生達のが、ときどきわっと盛り上がって笑い声を立てる。
 そのたびに由香里の心はかき乱され、そしてしばらくたってから、ああ、さっき勇気を出して、トイレに駆け込んでいれば今頃は、と、後悔するのだった。
 時間だけが刻々と過ぎていく。ジレンマに悶えながら、頭の片隅に様々な事柄が浮かんでは消える。
 既に疑うまでもない先輩の狂気、階下のいつまでたっても帰る気配の無い女子高生達、恐らく発見されてしまったであろうティッシュ、そして先ほどのコール音の正体。

 あのコール。バイブ音が一回だけ鳴ったということは、電話ではない。メールだ。
 メールの主は誰だろうか。
 一番無難なのは、母親だ。その次が、朋ちゃん。だが、どちらも何となく可能性は低い気がする。母が心配するにはまだそんなに遅くはない時間帯だし、朋ちゃんは滅多にメールしてくるタイプではない。となると……。
 先輩。
 その可能性は十分あった。先輩にはアドレスを教えてはいないが、朋ちゃんを含めたいくつかの友人には由香里のアドレスを報せている(もっとも、今となってはメールがあるとしても、朋ちゃんくらいだった)。そして、狭く、ある種監視的な女子校の世界では、アドレスなんてあっという間に出回る。
 なるべく光が漏れないよう、体でガードしながら、由香里は携帯を開いた。
 状況を慮らない、無神経なまでの刺々しい明るさに、一瞬たじろぐ。

 暗闇に鳴れた目に、電子的な光が刺さる。画面右上の時刻に目をやって……そして絶句した。

 二十一時三十分。

 一瞬目を疑った。せいぜい、六時から七時までの間だと思っていたが。想定とのあまりのギャップにしばらく呆然としたが、目の前に示された数字が、現実だ。受け入れざるを得ない。

 そのとき、ある予感が頭を横切った。
 この時間帯なら、母親が心配してメールしてくる可能性が無いわけではない。
 いや、それ以前に、また先輩、あるいは朋ちゃんから連絡が着たら、どうするのか。
 再び店内に、けたたましくバイブ音が鳴り響く。
 由香里は急いでマナーモードに切り替えた。

 もし、気づく前にコールが鳴っていたらと思うと、ぞっとする。
 勇気が萎えない内に、由香里はメールの受信ボックスを立ち上げた。

『ERI 二十一時二十五分』。

 先輩だった――。胃がずんと落ち込むような衝撃。
 想定はしていた……。

 ERIというのは、先輩のあだ名だ。先輩は、自分の名前を平凡で古めかしいとして嫌っているらしい、と聞いたことがあった。だからといって「り」と「え」を前後させる意味は分からなかったが、ともかく友人には、「理恵子」ではなく「エリ」と呼ばせているのだった。

 内容を確かめる前に、一度携帯を閉じて、外の気配をうかがう。

 ……異変は、無い。

 由香里は再び携帯を開き、そして……カーソルを合わせて、クリックした。

***

 メールの内容は短かった。

<見つかった?>

 馬鹿にしている、と由香里は思った。服が見つかったか、という意味なのか、由香里が店員に見つかったか、という意味なのか。いずれにしろ。

 本当に、馬鹿にしている。

 しかし、由香里はつばと一緒に感情を飲み込んだ。

 希望は、費えた。先輩のメールに、救いを求めた自分が愚かだった。
 やはり、行くしかないのだ。

 相変わらず、階下は五月蝿かったが、それ故に、危険は無いと見ていいだろう。

 いや、むしろ、店内が静かになったときが、危ない。

 由香里は気づいた。
 この店は遅くまでは開いていない筈だ。一時期、ここが浜崎女子学院生の溜まり場として問題になっており、あるとき、朝礼の訓戒で取り上げられたことがあった。そのとき、営業時間が確か、22時までだというようなことを、聞いた覚えがあった。

 もう、21時半を回っている。
 躊躇はしていられない。

 最後の勇気を振り絞ろうとした、そのときだった。

 ――来た。

 めりめりと靴と床板の奏でる音。近づいてくる。
 しかも、そのペースは速い。こんなときだというのに、由香里は歴史の授業の先生を思い出していた。小太りで小心の、不人気の先生で、いつもこんな風に、早足で廊下をやってきて、ガラガラと音を立てて教室の扉を開くのだ。
 なんとなく、今来ているのはオタク店員だ、という気がしていた。先生もこの足音の主も、その足音からは怒り肩で威風堂々と進むさまよりは、キョドキョドとした小心者がぎこちなく歩くさまを連想させるのだ。
 しかしその足音は、何か確信のある足音だった。勇気を振り絞って、その勇気が萎えない内にと急いでいるような。

 気力がみしみしと、音を立て、倒れようとしている。
 足音は曲がり角のところまで来た。

 遠ざかることを、期待した。

 しかし、それはがこちらに向かって、近づいてきた。
 直感が言っていた。

 この人は、自分の居場所を知っている。

 足音は、考える暇を与えなかった。来る。来る。来る。

 ひゅうひゅうと、柳の枝が風になびくような、そんな音がした。
 自分の鼻から漏れた息だった。何かさらさらしたものが、滴った。ああ、自分はまた泣いているのか。顔をうつむけた。全身から力が抜ける。柱にすがる力すら湧かなかった。
 頭がくらくらする。
 セミが脱皮するときのように、今にもすがりついた柱から剥がれて、後ろに倒れこんでしまいそうだった。

 足音にまぎれて、風邪をひいた子供のような、鼻息の音を由香里は聞いた。
 それは間違いなく、あのオタク店員のそれだった。

 ゴムが床からはがれる音を、背中に感じた――

 しかしそれは、由香里の背中を通り過ぎた。
 足音はそれから数歩行ったところで、止まった。
 思わず、振り返る。由香里のテーブルからは、男の体は見えなかった。

――恐らく、由香里たちが居た席だ。

 無音。

 そして、男は引き返してきた。
 背後に、男の図体に押された空気が流れ、それに続いて、男の大きな体のたてる足音が、大きさを増して近づいてくる。
 再び、由香里の真後ろまで来たかと思われた。

 由香里は冷たい柱に胸の谷間を食い入れるようにして、壁に可能な限り密着させようと必死だった。少しでも男の視界から逃れようと、脚を広げ、首と腿の肉を柱に巻きつけ、腕を蛙のように折り曲げて。潰れた虫のような格好になって。

 呼吸どころか、体中の細胞を沈黙させんとばかりに、体を柱に押し付ける。
 背後の音は聞こえない。
 背中の触覚だけが生きていた。

 風が止んでいた。

 見つかった――。

 一瞬、そう思った。
 しかし、そうではなかった。
 男の足音がする。ただしそれは、さっきまでと違って、わずかに左に逸れていた。

 通り過ぎたのだ。

――助かった――

 何か、硬いものがはじかれて、壁にぶつかる音がした。

 その何かは何度か壁にぶつかったり跳ねたりしあと、からからと音を立てながら転がって、やがて止まった。

 軽快なリズムで遠ざかっていた男の足音は、ぴたりと止んでいた。
 沈黙。

 悪い予感がしていた。
 たった今、この暗闇にひっそりと、惡魔が降り立ったかのような、嫌な気配を感じていた。

 自分の気のせいだろうか。そうであってほしい。もしそうでないのなら――男の足に蹴られて転がったそれは、由香里の背後でとまったはずだ。

 ――もし男が――。

 男の靴が、きゅっ、と音を立てた。

 ――それを拾おうとしたなら――。

 一歩、二歩、三歩……。音が近づいて……いや、もう、すぐ背後まで来ている――!

 振り返らざるを得なかった。
 由香里が後ろを見たその瞬間――。
 そこには男の顔があった。

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