灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第二十五話『調理場の冒険――薄明の中で』

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2013 / 04 / 13  Sat
由香里Ⅰ   
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踊り場の死角から飛び出し、二段飛ばしで、飛び跳ねるように階段を駆け下りる。

 入り口が見えた。差し込んだ光が、板張りの床に美しいグラデーションを描いている。

 道路を隔てて駅の明かりが見えた。
 あっという間に、階段の最後の三段を一気に飛び越え、入り口のすぐ真横に飛び出した。

 固い床に慣れた足の裏に、自動ドアの絨毯の感触。
 自動ドアが作動しているのでは、という不吉な考えが浮かんだが、硬く閉ざされたままだった。

 薄明の最も濃い中へと躍り出た。

 その光は、二階を占めていた、上から差込み、由香里の肌を青白く浮かび上がらせ、まるで月と少女が共鳴しているかのような、そんな光とは、性質が違っていた。若干黄色味を帯びていて、店のすぐまん前に流れる車のライト、それに常に点灯している信号の明かり、それに、街灯だ。

 白い光を、真下へと落とす街灯。そういえば、この店のすぐ傍の電信柱に、殆ど壊れかけに見えるような街灯が据え付けられていた。こちらは、路地に反射してから、下から照り返すように由香里を照らしていた。
そして、道路を隔てて、最も華やかに彩られた駅から発せられる光が、由香里の体を真っ直ぐに照らしていた。

 複雑に混ざり合ったそれらは、ガラスを隔てた店内を、殆ど霞のようにしか照らさなかったが、視界に納めまいとしている由香里にとって確実に外の世界を感じさせるものだった。

 絨毯の外、冷たい床へと、足を降ろすと、そのまま力の限り、床を蹴った。
 ぞっとするような光の世界に背中を向けると、全速力で、闇の中へ――カウンターへ――入り口を確かめる余裕など、もはや無かった――心に決めたように、なりふり構わず――体を隠しもせず、腕を振りながら全速力で走ると、カウンターに手をつき、地面を蹴った。両足は障害を越え切れず、カウンターを踏んだ。蛙のような格好でぺたんとカウンターを踏んだあと、その内側へと飛び降りた。

***

 ひとまずの、危機は終えた。乗り越えた、とは言い切れないのが辛いところだが、やらねばならないことは、やり終えた。

 苦しい。

 たった今の自分の獣のような格闘を、誰かに見られてはいないだろうか。
 だが、遠慮してしまい、その結果手間取るよりは、どんなにはしたない格好だろうと、決死の覚悟で駆け込むほうが、ずっといいに決まっているのだ。

 頭では分かっていても、光の中へ一瞬躍り出たとき、自動ドアの光の前を通り過ぎるまで、それはわずか数秒のことだったが、冷水の中にぶち込まれたかのように、由香里の心臓は縮み上がらせた。

 もちろん、孤独のままこの場所を抜け出す一番の理由は、戦いのためだった。
 これ以上、あの女――理恵子に、弱みを握られて、たまるか――。
 どんなに惨めな思いをしても、復讐してやる。由香里をエースたらしめた、その女性的な容姿からは想像もしえない負けん気が、闘志が、由香里の行動の源だった。

 ここから這い出て、あの女を、告発するつもりだった。
 プライドと、復讐へ燃え滾る炎は、由香里をときに慎重に、ときに大胆にしていた。

 由香里は、再び呼吸が収まったのを確認すると、獣のように、四つんばいで、捜索し始めた。

 あれだけの仕打ちを受けたのだ。

 どんなに格好つけたって、もう、わたしは、普通の女じゃない。

 どんなに泣いたって、もう、戻れない。

 涙が、ぽたぽたと床に落ちたが、由香里の表情は硬いままだった。

 階段から見たときは、カウンターの中が闇の塊のように思えたが、こうして姿勢を低くしていると、入り口から差し込む明かりはこの空間にも微弱ながら届いていることがわかる。

 カウンターの更なる奥、調理場。ここなら、カウンターに加えて、更に壁一枚――といっても、小さな窓ガラスが遠慮がちに嵌め込まれているが――隔てている。少なくとも姿勢を低くしている限りは、駅から見られるなんてことはないだろう。

 調理場の床はやけにべたべたしていて、気持ちが悪かったが、豚のようにひざをついて、よちよちとさ迷った。脱出の鍵があるとしたら、この場所以外にありえないのだから。

 それにしても――。

 ついさっきまで、何もないがらんどうの空間にずっといたせいかもしれない。ごちゃごちゃした、ステンレス製の装置に埋め尽くされた調理場にいると、不思議と気が落ち着いた。

 不自由な視界の中、由香里は、スタッフルームを探した。制服に着替えたり、休憩をしたりする場所が、必ずあるはずだ。

 調理場は思っていたより狭かった。そのためか、あっけなくそれらしい場所を見つけることができた。ピンク色の、縦長の擦りガラスの付いた押し扉が、奥まったところにある。
 ところがいざ開けてみると、更に二つの扉があり、そこを覗いてみると、スタッフルームではなく店員用のトイレのようだった。確かに、ここなら、レジからは死角になるわけだ。

 トイレには、やはり二階と同じように擦りガラスが据え付けられていた。擦りガラスは針金でできたような柵に面しているらしく、そのシルエットがはっきり写りこんでいる。ぽっかりと扉の開いた個室を見て、由香里は一瞬、鈴村のことを考えずにはいられなかった。いないと分かっていても、尚。

 反対側を見ると――また扉だ。
 この扉には、ドアノブが付いている。注意深く中腰になると、由香里は扉を開けた。

 今度は、正解だった。

 扉を開けた途端耳に入ったのは、異様な機械音だった。

 スタッフルームは板張りの五畳ほどの部屋だった。中心には、大きな丸いテーブルが一つ、それを囲むように固めのソファーが四つ、そのほかテレビや漫画雑誌を重ねた棚、小さな自動販売機(機械音の正体はこれだ――)などがある。

 部屋に立ち込める生活の臭いに、思わず後ずさりする。

 ついさっきまで、この空間に人が出入りしていたんだ。

 鈴村はもちろん、あの女店員や、それに、他の店員達……。

 ずりずりと、膝を引きずってから、気づく。もう、四つんばいになる必要はないのだ。
 由香里は恐る恐る、立ち上がる。体の節々が痛いのは、体勢を取り続けただけではなく、緊張のせいもあるだろう。

 テーブルの中央の灰皿に捨てっぱなしのタバコが、やけに気に掛かる。

 何となく、この部屋で立ち上がるのは気が引けた。部屋に残る、男の名残。
 知らず知らずのうちに、由香里は胸の前で腕を組んでいた。

 今更になって、自分の体が濡れていることが気に掛かる。何となく恥ずかしくて、立ち上がることができなかった。

――まだ、自分は、「女の子」なのだろうか……

 自嘲的に、心の中でつぶやき、中腰のまま、部屋を捜索し始めた。
 ざっと見渡してみたも、由香里の服は見当たらなかった。

 部屋には一つ、やはり擦りガラスの窓が備え付けられていて、漆黒の闇を映し出していた。
 そしてそのすぐ脇、部屋の隅には、一つ、小さな扉。
 多分、ロッカールームだ。
 ここに無いとしたら――。期待と緊張。

 鍵が掛かっているのではという不安は、杞憂に終わった。

 細長い部屋。それに、ロッカーが二つ。

 スタッフが、着替える場所だろう。恐らくは、女性用。

 まさかとは思うが――。

 早足で進むと、二つ同時に、ロッカーの扉を引いた。

 左の方は、だめだった。
 だが、右の鍵は開いていた。

 ロッカーの下の方にあるものを見て、一瞬、やった――そう思った。

 しかし、衣服に見えたそれは、エプロンだった。黒緑色のビニール袋から、几帳面に畳まれたのが除いていた。
 上を見ると何かの端が見えたが、取ってみると、ただの文庫本だった。

 違った。ここには、無い。

 小さな失望。

 しかし、捜索を進めるにつれ、その失望は鼓動と呼応しながら、その大きさを増していった。

 無かった。棚の上の漫画の陰や、冷蔵庫の中すら調べたが、無かった。

――トイレ?

 まさか、そんなはずはないだろう――。

 この場所こそが、由香里にとって希望だった。
 不安に苛まれながらも、どこかで楽観的な見通しをしていたところがあった。客の忘れ物を、店の誰かが自宅に持ち帰るなんてことは、無いだろう。とすれば、スタッフルームにある可能性は高い。ロッカーあたりを探せば、見つかるような期待があったし、それどころか、テーブルの脇にでも、無造作に置かれていることすら期待していた。

 そういった見通しがあったからこそ、理恵子にも強気の態度をとれたのだ。

 しかし、調べれば調べるほど、絶望的な悪夢は現実のものとして、確かな形をとりつつあった。

 冷や汗をかいていた。

 ロッカールームへ再び赴く。ロッカーの上など見落としていたのかと思って確かめるが、あるはずもなかった。
 あるとしたら――鍵が掛かった、このロッカーだ。

 由香里は、音を立てないよう警戒しながら、力ずくでロッカーを引いた。
 びくともしない。

 何で、何で、何で――!

 泣きそうになりながら、何度も何度も――。
 心臓が、狂ったように胸を叩く。

 しかし、ロッカーは残酷なほど堅牢だった。

 無理だ。

 時間の無駄だ。諦めるほか、無い。

 どうして――。こんなはずでは、無かった。

 自分の衣服は、間違いなくここにあるはずなのに。自分の一部を、何者かに理不尽に取り上げられたような気がした。ここで逃げたら、二度取り戻せない何かがこのロッカーに封印されているかのような、そんな気さえする。

 だが、一方で、由香里がすべきことは――いち早く、諦めることなのだ。

 由香里は、悶え苦しんだ。

***

 調理場へと出た。

 腰をかがめながら、慎重に、光の方向――外の世界をうかがう。

 この駅は昔はもっと流行っていたらしいが、今では賑わうのは学生の通学アワーくらいで、夜になってしまえば、過疎の住宅地にすぎないこの駅は閑古鳥が鳴くのだという。
 噂としては聞いてはいたが、ここまでとは――。道路の通行は、ほとんど無いに等しいらしく、車の気配といえば時折遠くから車の走る音が聞こえるのみだった。
 小さな駅をぽつんと照らす蛍光灯が、これほどまぶしく感じられるのは、周囲があまりにも閑散としすぎているからだろう。
 もちろん、由香里の心情的な理由もあるだろうが――。

 朋ちゃんに、助けを求めようか。
 ついさっきまで、スタッフルームに見つけることができなければ、「潔く」朋ちゃんに助けを求めるつもりでいたのに、こうして一階に降りてみると、つい、諦めがつかなくなってしまう。

 衣服さえ手に入れば――自力で脱出すること自体は、決して不可能とは言い切れなくなってきたからだ。

 あの後、調理場やスタッフルーム、トイレの窓を慎重に調べてみたのだった。窓の鍵は当然、内側から掛ける仕組みになっている。だから、たとえ自動ドアや窓の戸締りがされていようとも、窓に関しては、内から外へ抜け出すことは、不可能ではないのだ。

 これは同時に、その窓を介して、衣服の受け取りができるようになるということでもあった。
 尤も、まともに出入りできる窓は限られていた。トイレの窓は小さすぎたし、スタッフルームの窓は、タバコのポイ捨てを防止するつもりなのか、緑色の鉄格子で覆われている上、足の踏み場の殆ど無い川に面していて、しかも正面には民家がずらりと並んでいるという始末だった。ついでに、駅とは反対方向だ。
 店内の客の周りにある窓は嵌め込み型で、開け閉め自体が不可能だ。

 一階の窓は全滅ということになるが、可能性が費えたわけではない。

 二階のトイレの窓だ。

 二階の高さからそのまま飛び降りることなどまさかできないが――しかし、何か足がかりがあれば、不恰好ながら、一階の路地に出ることは不可能ではない。幸いにも、水場ということだけあって、スタッフ用トイレの窓の脇には配水管が二階へ向かって伸びていた。恐らくそれは、建物の構造的に見て、二階のトイレの窓に繋がっているはずだった。

 服さえ見つかれば、何とかなりそうな道筋は見えてきているのだ。

 それに――。

 朋ちゃんへ連絡する踏ん切りが付かないのは、それだけではなかった。
 朋ちゃんを、巻き込みたくなかった。

 今日の理恵子からの嫌がらせだって、由香里の友人であると同時に、朋ちゃんが理恵子に対して抱いている敵意を感じ取られたからではないだろうか。
 これまででさえ、朋ちゃんは理恵子への嫌悪感をあらわさずにいられなかった。そんな朋ちゃんが、由香里が今日遭った仕打ちを知ったならば、嫌悪感が露骨になるどころか、理恵子たちに対して、何らかの行動に出る可能性すらあった。

 もう少し、探してみようか――。

 無駄だと分かりつつも、そんなことを思ってしまう。

 アナウンスに続いて、電車の近づいてくる音。

 由香里は、駅を見た。駅の風景は、さっきまでと何も変わらないままだ。それが、却って由香里には不気味に見えた。

 あと、帰りの電車は何本あるんだろう。
 時間が知りたい。
 夢中になって探していたから、今が何時かすら、分からなかった。

 電話を掛けるなら、早い方が良い。朋ちゃんなら、たとえ深夜三時を回っていようと、由香里のためなら駆けつけてくれると分かっていた。だが、実際には、もっと最悪の状況がありうるのだ。朋ちゃんが寝てしまい、由香里からのSOSに気づかないという状況。

 今が、決断のときだった。
 また二階へ戻り、朋ちゃんに助けを求めるか――。
 それとも、独りで闘うことに拘り、ロッカーを意地でもこじ開けるか――。

 由香里は、深呼吸し、瞑想を始めた。

 しかし、
 十まで数えたところで、やめてしまう。

 由香里のなかに、ある、ぞっとする考えが思い浮かんだのだった。

 しかし、その考えを行動に移すことが、今の自分ならば、無いとは言い切れなかった。

 その考えを頭に思い浮かべるだけで、気が狂いそうになる。
 体が、ぶるぶると震え始める。考えそのものより、考えを実行に移しかねない自分が恐ろしかった。

 由香里は、これ以上無いほどの寒気を感じながら、あるものを得るために、スタッフルームへ向かった。

 二階へ向かう前に、準備が必要だった。
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