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鈴村と女店員が去ってしまってからも、由香里は抜け殻のように壁にすがり付きながらも、腰を浮かせ続けていた。
濡れていたからだ。
侮辱の言葉が静かに激しさを増すにつれ、由香里の中の激情の炎は油を注がれるがごとく、肥大していった。唇を噛み切らんほどに噛み締めて、堪えて、堪えて、堪え続けた末に、由香里の中に限界が訪れたのだ。
カシャリ、という、アナログカメラを模した電子音。
その音を聴いたとたん、目の前が真っ白になったのだった。続けて、太ももを伝った暖かいものが、臀部からしとしとと雫を垂らすのを聞いた。
怒りのせいだろうか。あるいは、恐怖のせいだろうか。由香里は失禁したのだった。
痙攣とは別種の震えが体を駆け上がった――。
目が覚めたのか――あるいは、満足したのか……男は立ち上がる素振りを見せた。
由香里は密かに安堵していた。汚濁にまみれた後の姿を、撮されずに済んだ。
立ち去る前に、男は濡れタオルで、由香里の体の、汚水で濡れたところを軽く拭った。その感触がいつまでも、由香里の体に残り続けた。
男がテーブル下からいなくなってからも、女店員とときどき掛け合いながら、もくもくと掃除を続ける気配が伝わってくる。階下とやり取りの後、もう挨拶、始まっちゃいますよ、と、女店員が呼びかけた。
そして二つの足音は、曲がり角の向こうへと消えていった。
抜け殻になった由香里を、閉店間際の店員たちの騒ぎ声が通り抜けていった。
階下からは、女子学生達の気配が無くなっていた。
そしてやがて、電気が消え、音楽が消え、店員たちの声も遠ざかり――誰もが、この店からいなくなった。
丸裸の少女を取り残して。
***
由香里の携帯が鳴り響いたとき、女店員に見つからずに済んだのは、由香里のとっさの判断からだった。バイブ音が鳴り響いたとき、とっさの判断で、由香里は携帯電話を手で覆い隠したのだ。
女が振り向くまでの僅かな間に、携帯から発せられた光の点滅が由香里の位置を教えてしまうことに気づけたのは、奇跡的としか言いようが無い。
由香里の機転によって、女店員に気づかれることは防ぐことが出来た。
だが。
そうした機転の結果、由香里は最後の機会を失ったのだ。
そのことを、暗闇と静寂に包まれてみて、思い知らされた。
由香里をこの状況から救い出し得たのは、あの女店員だけだった。
何の為に、地獄のような陵辱に堪えたのだろう。
声を挙げなかったのは、鈴村に希望を託したからではない。
由香里は自分の境遇がおおっぴらになるのを、恐れたのだった。
浅い目論見だった。あの状況だけしのげば自力でこの地獄から抜け出すことができるような気でいた。いや――どこかで、誰かが助けに来てくれるような気がしていたのだ。
ところが現実には、信じられないほどあっさりと、この店を満たしていた人々はいなくなってしまった。閑散とした駅近の、小さな店だ。電気と音楽がとまってしまっただけで、店内は深い暗闇に包まれ、静寂の中に溶け込んでしまった。
一体、誰が救いに来るというのだ。冷静に考えれば、当然だった。
誰も、今由香里がこうしていることなど、知らないのだから。
ふと、朋ちゃんの顔が、頭に浮かぶ。
朋ちゃんが、私を、助けに来る――?
由香里は、口の端をゆがめて――抜け殻と化した今の由香里が口の端をゆがめたところで、とても笑ったようには見えないだろうが――一人笑った。
鈴村に名前を聞かれたとき、朋ちゃんの名前を名乗ったことを、思い出したのだ。
ひっそりと、朋ちゃんを裏切っておいて、よく、そんな都合のいい願いを抱けるものだ。
自分は、朋ちゃんを恨んでいたのだろうか。
一瞬、そんなことを考えて、慌てて否定する。
違う。
朋ちゃんを恨む理由なんて、わたしには無い。
わたしがこんな目に遭っているのは――。
悪いのは――。
何かが、手に触れた。
携帯だ。
そうだ――。
今の状況から救い出してくれるものがいるとすれば――必ずしも、それが善意からとは限らないとして――先輩だろうか。
由香里は携帯に目をやった。
あの電話の後、全く連絡は無かった。それどころか、由香里はまだ、メールを確認すらしていなかった。
いつの間にか落ち着いていた鼓動が、再び高鳴り始めた。
このメールの内容で、運命が決まる。
もし、このままこの場に取り残されることになれば――。
こうして悩んでいる内にも、刻一刻と時は経ち、やがて朝になり――。
今度こそは、逃げようが無い。
それだけじゃない。もう、十一時を回っているだろう。母さんも心配しているだろうに、これ以上遅くなるわけにはいかない。
携帯を開こうとして――由香里はためらった。
運命を目の当たりにするのが、怖かったのもある。だがそれ以前に、携帯の明かりがこの暗闇の中に広がることを恐れた。
光の中へ体を晒すことへの、反射的な羞恥。性的な羞恥心というよりは、罪悪感に近いものだった。穢れきってしまった自分には、この真っ暗なテーブルの下がふさわしいように思えた――。
遠く、電車が止まる音が聞こえた。
誰も乗り降りする気配のないまま、扉は閉じられ、行ってしまった。
ああ、わたしは、本当に、孤独なんだ。
夜が明けるまでに、あの電車に乗って、帰れるのだろうか。どっと、不安が押し寄せる。
ふと、恐ろしい想像が頭をよぎる。
もし。万が一の話だが。このまま、衣服が見つからなかったら。
裸のままでも、電車に乗り込んでしまえば――過疎電車のことだ見つからずに、家までの数駅くらいは、見つからずに済むかもしれない――。
背筋が凍る。
とんでもない。
狂気の沙汰だ。
由香里は、携帯から手を離した。やはり、携帯を確かめるのは、トイレに身を移してからにしよう。ここにいると、気が狂いそうだった。今はまず、安全な場所へ身を移し、次の行動を、じっくりと考えるとしよう――。
***
熊か何かのように、由香里はのそのそと廊下へ這い出た。
誰もいないと知りながら、左右を確認してしまう。
見渡そうにも、月明かりだけでは、十分に見渡すことができない。
暗闇の中に差し込む青白い光を見ていると、何か体温がどっと下がりそうな思いがした。
胸の前で、腕を組むと、夏の夜だというのに、鳥肌が浮かんでいることに気がついた。体はところどころ、湿っていた。男の唾液と、自分の汗でぬらぬらと光る体。
肩をすぼめながら、由香里は走った。体を縮めて、早足で、しかし物音に気を配りながら。曲がり角を曲がり、窓の明かりの中を、駆け抜けていく。
誰もいない。
そう言い聞かせながら、とうとう階段の前にやってくる。意を決して、駆け抜けた。
階段前を抜けると、曲がり角を曲がる。目の前に、トイレの扉が見えた。
由香里は、トイレをめがけて、テーブル席の横を走り抜けた。
扉の前に来た。
一瞬、
閉まっていたらどうしよう――。
そんな考えが頭をよぎったが、扉はあっけなく開いた。
石造りのタイルに足を踏み入れる。
トイレの床の上に、裸足で立つことの嫌悪感。
とっくに、汚れきった癖に、と自嘲気味に笑う。
手洗い場と、二つの個室があるだけだった。
いや、奥まったところにあるのは――。
女性店員の言っていた、「不審物」が見つかったというあのロッカーが、そこにあった。学校によくある掃除用具箱と同じような型の、灰色の金属製のロッカーだった。
味気ない色をした、この金属の塊。この中に、先輩は由香里の衣類を隠したのだ。
音を立てないようにしながら、慎重に扉を開く。ホースやモップなどの掃除用具があるだけで、由香里の服など見当たらなかった。分かってはいたが、やはり、がっかりしてしまう。
念のため個室も調べたが、普通のトイレの個室となんら変わりのないものだ。
結局、状況が変わったわけではない。
思い切り、息を吸う。夏の夜の空気は、不思議と冷たく感じられた。
ここには、わたしの身を隠せるものは何もない――と。
しかし、個室の中は、やはり、わずかではあるが、安心感があった。
狭くて、薄暗いというのはもちろんだが、何よりも鍵つきであることがありがたかった。
考えないようにはしていたが、由香里は、鈴村が本当にこの店からいなくなったのか、疑っていた。
例えば、一度解散した後、こっそりと、店に戻ってくる、ということはないだろうか――。
いや、それはない。店を閉じた後には鍵を掛けるだろうし――。
そこまで考えて、はっとする。
店が閉じてしまってからの問題は、服のことだけではなかった。まず、店から脱出すること自体が、不可能なのではないか――。
頭がくらくらした。
結局、どんどん、状況は悪くなる一方なのだ。万一服が見つかったとして、脱出できる見込みがあるだろうか。 いや、最悪なのは、もはや、先輩の救いの手を望めないということだ。
今の由香里の状況を知る先輩が、この店に舞い戻るということは、無い。
衣服は、没収され、行方が分からない。
絶望的だった。
この店の中のものだけで、自分を救い出すだなんて――。
こみ上げてくるものがあった。
***
胃の中のものを吐き出したところで、絶望的な気分は和らぐどころか、むしろ焦燥感を追い立てられるような気分だった。自分の吐き出したものの放つむっとする臭いに、むかむかする。
音を立てるのは躊躇われたが、思い切って、流してしまう。
さすがに、水道は健在のようだ。
電気はどうだろう。ブレーカーごと、落ちているのだろうか。もっとも、明かりをつける気になど、とてもなれないが――。
苦悩は拭い去ることなく、由香里を苦しめた。
どうすればいい――。どうすれば――。
そうこうしているうちに、時間だけが過ぎていく。
電車の音が、近づいてきては、去っていった。
気が狂いそうだった。
***
冷たいシャワーを頭から浴びる。
左手に握られた個室と天井の隙間から通したホースの先からは、ちょろちょろと弱弱しく水が流れ出ている。
床はもともと湿っていたし、多少水を濡らしたところで、誰も気づくまい。それでも、なるべく音を立てないようにだけ気を配った。鈴村がこの店内に現れることは物理的にはありえないといえども、男性への恐怖は、亡霊のように染み付いていた。
不吉な想像は、足をすくませるだけで、何ももたらさない。必死に頭から振り払う。
何か別のことを考えようとして、ふと思いつく。ここはまるで、学校のシャワー室のようだ。
尤も、シャワー室と違って、水は無慈悲な程に冷たく、由香里は丸裸ではあったが。
一度洗いはじめると、先ほどまで忘れていた不潔への嫌悪感が息を吹き返し始める。多少時間を無駄にしても、 まずは徹底的に体を浄化したくなった。体を念入りに、手のひらでこすりあげる。何度も何度も――。しかし、体中を汚した男の唾液は、洗っても洗っても、染み付いて、流れ落ちないように思われた。
個室の扉を開けると、洗面台へ石鹸を取りに向かった。
据え付けられた鏡に一瞬、自分の姿が移る。慌てて目を逸らした。
石鹸は殆ど泡立たなかったが、体を洗うのには十分だった。泡を全身に塗りたくるだけでも、体に染み付いた毒が癒されたようで安心したし、何より、石鹸の強烈な臭いが不浄の痕跡を隠してくれるような気がした。
それにしても、冷たい。
夏の暖かい気温とはいえ、こうして水を被ってしまうと、風邪を引きかねないが、今はそんなことを考える余裕もなかった。
泡が便器に流れ込んでいく。何て大胆なことをしているのだろう。こんなところで、まるでお風呂場にいるかのように、裸の体を洗い流しているだなんて。
異常な状況がもたらす、抑えようの無い強烈な倒錯感のせいだろうか、急速に身の回りのものから現実味が遠ざかっていくように思えた。裸のまま、電車に乗り込むなどという大胆な作戦も、今なら決して出来なくはないのではないか、とすら思えた。
駄目、駄目――!
由香里は頭から水を被った。
時間は無い。朝に近づけば近づくほど、状況は悪化する。行動することを恐れて、保守的になればなるほど、危機は具体的なその姿を強めるのだ。
考えよう。考えよう。
洋式であってくれれば、座りながら、じっくりと考えられるのだが、仕方ない。由香里は壁にもたれ掛かり、これからのことを思案しようとした。
しかし――。
現実的な策は、何も思い浮かばなかった。
この状況から、どうしろというのだろうか。拠り縋る糸どころか、出口すら見えなかった。
洗面台の脇に置いてきた携帯のことが頭に浮かぶ。今、由香里の携帯には、鍵となりうる二通のメールがある。鈴村に由香里の居場所を知らせたメール。女店員が来た時に鳴り響いたメール――。
しかし冷静に考えれば、先輩からのものだとは限らないのだ。
例えば、母さんが帰りが遅いのを心配して連絡をよこすことは大いにありうるし、朋ちゃんなど、由香里の友人からのなんでもないメール、それにひょっとしたら、服屋やレンタルビデオショップのサービスの通知かもしれないのだから。
さっきまで、あれ程確かめたかったものが、手に届く今となってはとても遠く感じられる。
由香里は怖かった。これまで、何度も何度も、裏切られてきたせいだろうか。携帯のメールなど、希望どころか、由香里を絶望に突き落とすための罠にすら思えた。
由香里は、小さな声で発狂しながら、全身を掻き毟るようにこすった。
どんなに水で洗っても、自分の体が穢れきった、嫌悪すべきものであることに変わりなかった。特に、男の口内で唾液に濡れそぼった陰毛が、汚らわしく思えて仕方が無かった。
穢れているのは、肉体だけではない。
由香里は、男の手のひらを自分にこすり付けたことを思い出した。
いやらしい声を発しながら、由香里は男と一緒に、性の愉しみを共有したのだった。
男女の番のように。
ああっ!
今すぐ、髪をかき乱して、叫びだしたかった。
他者の視線から解放された途端、今度は消えてしまいたくなるほどの虚しさに包まれる――。
どうして、運命はここまで苛烈なのだ。
私が何をしたというのだろう。
先輩の笑みが、頭に浮かんだ。
何故、あの女は、自分をここまで恨むのだろうか。
鈴村というあの店員による仕打ちは、先輩が仕組んだことではない。
由香里が、店員に見つかり、穢されるように仕向けたとも、思えない。
だが――。そうなってもいい、とは思っていたのではないか。
そうでないと、こんな狂ったことはできない。
裸のまま放置するなんて。
衣服を隠すなんて。
本当に、狂っている。
たまたま鈴村店員があのような人間だったから、ぎりぎりで先輩は助かったにすぎない。
だが、もし他の店員、あるいは客に、裸の由香里が見つかっていれば――そのときは、先輩も道連れなのだ。
いくら由香里を憎んでいたとはいえ、自分までもを追い詰めることをするはずがない。特に、この時期でのスキャンダルは、大会にとっても、また進学にとっても、致命的なのだから。
由香里を放置した先輩の行為は、自暴自棄になっていたとしか見えなかった。
ひょっとしたら――。
先輩は、気を失った由香里を眺めながら、自己の保身と、由香里へ悪意の限りを尽くしたいというジレンマに悩んだのではないか。そしてその挙句、結局、その決断を誰でもない第三者、運命にゆだねたのではないだろうか。
だとしたら、それほどまでに先輩を悩ませた、強烈な由香里への悪意は、どこにあるというのだろう。
記憶をたどっていっても、わからなかった。
この一日の間に、由香里は下着を下級生に晒され、敵に裸にされて、獣に穢され、純潔を失った。
そして、鈴村の愛撫と唾液に塗れてしまったのだ。処女でなくなったわけではないが、殆ど同じことではないだろうか――。由香里は悦びを感じてしまったのだから。男の愛撫に感じていたのみならず、最後には、自分を犯した相手に向かって自分から――。
ああっ!!!
恥ずかしくて、恥ずかしくて、死にそうだった。
涙が、次から次へと溢れてきた。
駄目。
考えちゃ駄目だ。
考えちゃ、駄目。
今は、強かにならなければ。
この地獄から、抜け出すのだ。暖かいお湯に体を浸し、服を着て、自室のベッドで布団を被り、そのときに、ようやく泣けるのだ。
今は、泣いている場合じゃない。
そんな少女のような甘えは、時間が赦さない。
次の地獄が迫る前に、自ら動かなければならないのだ。
だが、できなかった。
由香里はこの狭い個室から、動く気になれなかった。
いまや、自分が立てる物音一つ一つが、羞恥を掻き立てた。水溜りを踏んでぴちゃぴちゃと鳴る足音も、髪から垂れる水滴も――。
流れ続ける水の音すらも嫌になって、由香里はしゃがみ込み、目を瞑り、耳をふさいだ。時間の経過を知らせる電車の音が、遠くに聞こえた。
どれくらいこうしていただろうか。
暗闇の中に、電子音が鳴り響いていた。
暗闇をノックし続けるその音が、携帯の呼び出し音であることに気づいてからも、由香里はそれを取り上げる気にはなれなかった。
誰がなんと言おうと、わたしは――。
しかし、携帯は鳴り止まなかった。数分経っても、鳴り止まないので、結局由香里は立ち上がった。
由香里が立ち上がったのは、携帯を鳴らすものへの期待ではなく、純粋に眠りを妨げる騒音を止めるためだったが、しかし洗面台の前まで来て、携帯の点滅を目の当たりにすると、かすかな希望を抱かずにはいられなかった。
違う。母さんじゃない。朋ちゃんでも、ない。
携帯の画面に映し出されたのは、見知らぬ番号。
震える指で、由香里は通話ボタンを押した。
……向こうから聞こえてくるのは、ノイズだけだった。数秒経って、ようやく電話を掛けた主の声。
先輩だった。
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