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鼻先数十センチのところに、由香里は男のにきび面を見た。頭でっかちの卑屈そうな横面は、オタク店員に間違いなかった。
しかし、男の目線は地面に向けられている。
由香里には、かろうじて気づいていないようだった。
部屋が明るければ、男の毛穴までも見えるだろう。
たとえ気絶しようとも、息はするまい。
男はなかなか立ち去らなかった。
由香里の背後で立ち止まったまま、何かをしているようだった。
……何かを呟いている。
――もしかして、何かの文面を読み上げているのだろうか。
由香里の中にはある考えがあった。先輩は、自分に何かメモを残していたのではないか。自分が見落としたそのメモを、この男は見つけてしまったのではないか……。
冷静に考えれば、裸の由香里が第三者に見つかるようなことがあれば、困るのは由香里だけではないのだから、本当は、衣服を得るためのヒントを残していたのかもしれない。例えば衣服の場所や由香里の「降伏」を受け入れるための条件を書いた紙片などだ。
この可能性に関しては、携帯を見つけた時から考えていた。
携帯を残していたということは、少なくとも交渉の余地があるということではないだろうか。
隠すようにしていたのは、由香里が先走って外部に助けを呼ぶのを防ぐためだったとか――。
もちろん、このいたずらの粋を越えた暴走が、単純な狂気に突き動かされているという説も捨てきれずにいた。先輩が由香里に抱いている、正体不明の底なしの憎しみは、全身をもって味わっていたのだから。
男の声は、ぼそぼそしていて、上手く、聞き取れない。
由香里は上体を、わずかに逸らせた。
由香里は気づいた。
男の呟きの正体を、知ってしまった。
いや、正確には、それは呟きではなかった。のろいの呪文のようにも聞こえたそれの正体は、口ではなく鼻から発せられたものだった。
男は見ているのではなかった。嗅いでいるのだ。
由香里は、目が覚めたときの、自分の体を包んでいた光景を思い出していた。
黄色い池を、四つんばいになって拭き取ったときの、情けない気持ち。そして、階段から逃げ離ったとき、よりによってその恥辱の痕跡を一つ、置き忘れてしまったこと。
ああ、男は、ティッシュを手に握り、嗅いでいるのだ。
そこに染み付いた、由香里の尿の匂いを。
***
柱を握った手から、力が抜けていくのを感じた。
駄目――。
今放したら、男の両足に倒れこんでしまう。
だが、正体がわかった途端、さっきまでおぼろげだった音は克明さを増して、由香里に悪夢のようなイメージを描くのだった。豚のような男が、自分のもっとも嗅がれたくない匂いに、貪りつくようにしている光景を。
それは、まさに自分のすぐ真上の光景なのだ。しかも、今この瞬間の。
由香里は気づいたら、男の脚にすがりついていた。男がわっと声を出してたじろいだが、由香里はその脚を力強く引き寄せ、離さなかった。
あまりの嫌悪から、緊張が途切れたというのもある。
だが結局は、これまで散々見せ付けられた人間の醜さに打ちのめされたが故の行動だった。
由香里は女の醜さの底を知り尽くしていたつもりだったのを、今日という呪われたような一日によって、覆されたのだ。そこにきて、今度は男の醜態までも見せ付けられてしまったのだ。
これまで平然と同じ街に暮らし、ときに言葉を交わしまでした「男」という生き物が、とてつもなく卑しい化け物のように思えた。身の回りのもの全てが敵であり、腹のそこでは由香里を陵辱することを企んでいるかのように思える。
男と由香里の間には、テーブルを支える柱があったが、由香里の胸はその柱からはみ出して、男の脚に密着していた。
それでも由香里は、抱き続けた。そうすることで、自分の姿を男の視線から守ることができる
縋りつくというより、ほとんど抱きかかえると言ったほうが適切だった。店員は、由香里に膝を引き込まれながらも、テーブルに手を着いて、なんとかバランスを取っているようだった。
由香里は、男の良心を縋って、助けを求めていたのかもしれない。あるいは、自分がこれまで抗い続けた「敵」に、いよいよ降伏してしまったのかもしれなかった。
「お願い」
男が口を開く前に、由香里は言った。
男の声を、聴きたくなかった。
「何も言わずに、行って」
息も絶え絶えに、懇願する。
見ないで、とは、言えなかった。
何を?
と返されるのが、恐ろしかったからだ。
「お願い」
由香里は祈った。神様ではなく、目の前の男に。
沈黙は長くは続かなかった。
男は呟くように言った。
「――誰」
その声はひどく震えて、上ずっていた。
男からすれば、自分の卑しい自慰行為を、思わぬ場所から見られていたのだ。それも、男が想っていた張本人に。
息を荒げて、声が震えているのは、そのせいだ。由香里はそう信じたかった。
――決して、自分に欲情しているためではない。
由香里の運命は、男の良心ひとつにゆだねられていた。
男に慈悲があるなら、何も見ずに、去ってくれるかもしれない。
そればかりか、由香里の状況を知る、唯一の男として、手助けしてくれるかもしれない――。
しかし由香里は、男の問いに答えることができなかった。
今ここにいるのは、全裸の自分と、若い男――それも恐らく、未だに女性とかかわりを持ったことがなく、しかも恨んでいるかもしれない男――二人だけだ。
一体彼が欲望を抑えてくれるのか、疑問だった。
もし、由香里を哀れみ、協力してくれるならば、確かに男の存在は希望だった。だが、もしある悪意を発揮しようと考えたならどうだろう。ちょうど、由香里と先輩を取り残して去っていったあのときのように――。
由香里は、地獄との岐路の前に、竦むことしかできなかった。
ただ、体全体で男の脚に抱き縋るだけだった。
次の沈黙を破ったのは、またしても男の方だった。
「君、裸足なのか」
裸足――?
一瞬、意味がわからなかったが、すぐにはっとする。男の視点からは、テーブルからにゅっと突き出した由香里の足先が見えているのだろう。由香里は声の代わりにうなずいて、男の膝にこつん、と頭をぶつけた。
その言葉が、由香里を硬直させた。男は、今の由香里の状況を完全にはわかっていないのだ。
足先が見えているということは、少し背中を逸らせば、机の下の様子を見ることも出来るのではないか――。少なくとも、今は柱に巻きついた由香里の太ももは見えていないようだが、それは柱とテーブルの縁との間のわずかな部分によって、ぎりぎり遮られているに過ぎないのだ。
男から、距離をとりたいと本能は叫んでいる。
だが、背中は壁だ。逃げ場はない。それに、もし男の脚を離してしまえば、男を自由にすることになるのだ。
由香里は男と、自分と、冷たい柱を抱え込んだ腕をさらに絞った。せめて自分の秘所だけでも、男の視界からは見えていないことを祈りながら。
「服、着てないの?」
もっとも由香里が恐れた質問を、男はあっさりと、それも堂々と言葉にした。
今更になって、はみ出ていた脚をさっと折りたたむ。
「何で隠れているのかな?」
由香里は答えに詰まった。
嘘をごまかす為には、更なる嘘をつかなければならない。
だが一体、どうやって誤魔化せばいいのか、そのことをすっかり忘れていた。
「この下に、身を潜めていたんだろう?」
抑えた、しかし確実に突き放した声音で男は続けた。
しばらく間をおいて、由香里は答えた。
呟くように。
「……漏らしてしまって」
恥らいは、男の哀れを誘うための演技ではなかった。男は、粗相の痕跡を目にしたに違いないのだから。
階段前に置き忘れた、汚れたティッシュ。
改めて自分の恥を穿り返されて、男への怒りを感じつつ、由香里は顔をうつむけた。
穴倉の中で、次の言葉を待つ。
が、なかなか男は口を開かない。
男には、意味は通じたはずだ。
ならば何故、黙りこくっているのだろうか。
ひょっとしたら、と由香里は思った。
自分の境遇を察して、同情してくれているのかもしれない。
まさか、男が、さらに羞恥を煽る言葉を口にするとは思いもしなった。
「じゃあ、あの汚いティッシュは、君のものなんだ」
汚い、という言葉が、ぐさり、と胸に突き刺さった。
どうして。
どうして、こんなことを言うのだろう。
考えて、口にした言葉がそれなのか。
「そうなんだろう?」
と、男は続けた。笑いをこらえるような声だった。
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