灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第二十六話『汚濁の中へ――闇色の決意』

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2013 / 04 / 14  Sun
由香里Ⅰ   
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 大きな自動ドアの前をすり抜ける。

 思い至ってから二階へ向かうまで、また随分時間を食ってしまったが、タイミングを見計らい、ガラスの前を走る勇気を振り絞ることには、先ほどまでには心の準備を要しなかった。
 慣れもあるだろうが、一度、駅を、真正面から見据えたことが大きかったかもしれない。

 由香里を躊躇わせたのは、もっと別のことだった。

 ――正気なの?

 由香里は何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。

 答えは、明白だった。

 もちろん、狂っている。

 二階の踊り場へたどり着いてからも、憂鬱の暗雲は晴れないどころか、その厚みを増しとぐろを巻いていた。

 携帯が緑色に光っている。

 着信あり。

 母からだった。
 母が今の由香里を知れば、どう思うだろう。

 見なくとも内容は分かる。

 何か理由をつけて、帰りが遅い理由を返信するべきだと思ったが、由香里はそうしなかった。
 両親にとって、由香里がこんなに遅くまで――携帯の時計を見ると、二十三時を回っていた――帰らないということは異常事態でしかない。どんな理由をつけようと、同じことだった。ただ、心配ない、とだけ、送っておいた。

 最新の母のメールのほかに、二通の未読メールがある。

 新しい方は、やはり母から。これも、題名だけで、中身が想像できるようなものだ。

――そして、もう一つは、理恵子からだった。

 由香里は、理恵子からのメールにカーソルを合わせた。
 そして、中身も見ないまま、削除ボタンを押した。

***

 トラッシュボックスを漁る。
 目当てのものはすぐに見つけることが出来た。

 テーブルに忘れてきた、スイミングバッグ。

 鈴村は、ゴミに交えて、鞄を丸めてゴミ箱へ捨てていたのだ。
 あの状況で、鞄が女店員の目に付けば、面倒なだけだと踏んだのだろうが、それにしても、あんまりだと思う。

 鞄にコーラの水滴が付いている。中学の頃、大会に入賞した記念に、父に買ってもらって以来、ずっと大切に使ってきた鞄だ。
 涙がこみ上げてきた。母からのメールを見たせいか、感傷的になってしまう。だが、ぐっと堪える。
 もう、泣かない。
 これから、由香里のやろうとしていることには甘えなど許されない。由香里は決意していた。自分の為だけではない。家族や、朋ちゃん、それに、理恵子達に圧迫されている下級生達。自分の周りの人たちのために、闘うのだ。もちろん、その核で燃えているのは、醜い復讐の炎だとしても――。

 鞄の中には、先輩の体温計が入っていたが、由香里はそれをトイレの床に叩き付けた。
 硬い靴を履いていたなら、その上から何度も踏んづけたことだろう。

 由香里はゴミの中に突っ込んだ腕だけさっと洗うと、ついでに金臭い水でのどを潤し、そっと、ガラス窓を僅かに開けた。

 朋ちゃんへの連絡――最後の手段を取る前に、確かめることがあったのだ。

 慎重に外の気配を感じ取りながら、隙間を作って顔を出した。
 トイレのガラス窓は路地に面していた。確認すべきことは、二つあった。
 一つ目は、わざわざ探すまでも無かった。一階のスタッフ用トイレの窓から伸びた配水管が、こちらの壁までにゅっと伸びていた。ついでに、窓の下から向こうの壁まで、ぐるりと出っ張りがあるのを見つけた。これは思わぬ発見だった。手間が、大幅に省ける。
 二つ目は、少し難儀だった。由香里の左側、黒い川を隔てた民家群は、駅側とはまるで対照的に、真っ暗だった。
 
 だが、向こうからすれば逆光で、更に見えにくいはずなのだ。駅の側にだけ気をつければ、シルエットを見られたところで、そうそう、由香里の姿を悟られることはないはずだ。

 慎重に、駅の方向、右側を確かめた。こちらは少し明るいが、由香里がいるのは人が独り通れるか通れないか程のこれだけ細い路地だ。これだけ奥まったところにいれば、由香里を視覚に入れることのできるスペースなどかぎられている。タイミングを見計らって、由香里は思い切り上半身を乗り出し、民家の群れから望みのものを探す。

 数秒身を乗り出しては見つからず、すぐに怖くなって身を戻す、ということを何度か繰り返して、ようやく、それを見つけた。

 斜め右。換気扇付きの、二階建ての家。川に面した、細いスペースに渡らされた物干し竿。女物の薄手の服がそこにあった。しかも、換気扇の上には、運動靴が二足――。

 やった、などという、単純な気持ちにはなれない。

 窓を閉める。

 罪悪感は、ある。好きでやるわけではない。何しろ、窃盗だ。
 だが、自分の服が見つからない以上、他人のものを盗む他ないのだ――。

 そう、由香里は、朋ちゃんの手助けを借りる気は無かった。トイレの窓は衣服を着た後の脱出の出口ではなく、衣服を手に入れるためのスタート地点だった。

 川がそれほど深いものでないことは、既に確認済みだ。恐らく、踝まで浸るか浸らないかだろう。
 川のへりに設けられた柵を乗り越えるのだけが心配だったが、窓の下の出っ張りを利用すれば、柵の上に二階から直接行けてしまう。あとは柵を伝って川に下りて、あちら側に行ってしまえば、殆ど障害は無い。川伝いにやや移動してから土手を登れば、ゴールだ。

 着替えを手に入れてしまえば、後は家の隙間の物陰で着替えられる。ベッドにありつける――。

 土手に面して、まるで堤防のように立ち並んだ家々の壁。その隙間のわずかな空間に干されながら、かすかに月明かりを反射する、白っぽい女ものの服。
 脳裏には、しっかり焼きついていた。

 下着までは盗るつもりはない。身を覆い、電車に乗って帰るのに必要なだけの衣服が、由香里は欲しかった。
 由香里が見つけた服、シャツとズボンに見えたが、それは、ちょうど由香里と同じくらいの年齢のものに見えた。自分と同年代の女の子のものだと思うと少し気が引けるが、あの見知らぬ誰かの洗濯物に漂う家庭の香りが、由香里には我が家に通じているように思えた。

 せめて、もう少し、裕福そうな家だったら。

 そんなことを一瞬思った自分に、ぞっとする。
 変貌してしまった。ほんの少し前まで、下着を着ていないというだけで、心臓が爆発しそうなほど緊張していたなんて信じられなかった。
 今や由香里は、あられもない姿で外に這い出て、盗難をしようというのだ。

 とはいえ由香里は、今では裸同然というわけではなかった。
 由香里の腰には、赤いエプロンが巻かれていた。ロッカーからくすねてきたものだ。
 由香里は既に泥棒なのだ。

 自分の身を隠すためとはいえ、わたしは盗みをした。
 小さな胸のうずき。母が知ったら悲しむだろうな。先ほどのメールが、頭をちらつく。
 由香里は、状況を「肯定的」に考えることにした。

――いけないことをしちゃった。だからこそ、これから行う行為にも、躊躇う資格はないんだ……。

 ひょっとしたら由香里がタオルを盗んだのは、そんな気分を、無意識のうちに作り上げようとしていたせいかもしれない。

 馬鹿馬鹿しい。心の中のもう一人の自分が、あざ笑う。
 やろうとしていることは、ただの無謀だった。幅三十センチ程のエプロンを巻いたところで、裸同然に代わりは無い。そんな格好で、川を渡ろうとしているところを誰かに見つかれば――。恥ずかしい、だけでは済まされない。完全に、不審者だ。逃げ場だって、無いに等しい。

 見つかれば終わり――。

 無意味な狂人的行為。
 理恵子は、笑うだろう。
 それに、朋ちゃんだって――。

 分かっているが――。

 実感が持てない。
 夜陰に乗じれば、不可能ではないのではないか。
 川の幅は三メートルほどだ。こちら側の柵を乗り越えるのに手間取ったとしても、せいぜい三十秒で、服のあるところまでたどり着くだろう。
 三十秒。危険の中に身を晒すのに、そんなに、非現実的な数字だろうか。

 ここは駅周辺のにぎやかさから離れていて、閑散としている。何より、川べりには家々ののっぺらぼうのような壁が並んでいる。その奥側には道路があるようだったが、ずらりとならんだ家々は、由香里を人々の視線から守ってくれるだろう。

 完全に、人通りがないというわけではない。

 川伝いに左へ向かうと、川は闇の奥へとカーブしていて、その曲がったところを跨ぐように橋が架かっていた。万が一、橋の上に人がいれば、見つかる危険は十分にある。
 川を右伝いに行った先がどうなっているかは分からなかったが、時折ではあるが、遠くに車の通る音がしたから、こちらも何か車用の橋が渡っている可能性は高い。左前方の橋よりは距離があるが、ターゲットの家が右の方へあるので、川を渡った後はそちらに体を向けて走らねばならない。こちらも、不安だった。
 それに、周囲の建物の窓。
 これも確かに不安を掻き立てるが、こちら側に立ち並んでいるのは小さな個人事務所のような建物ばかりだったような気がする。あちら側はあちら側で、古臭い民家だ。駅方面からの明かりを漏らしている路地の隙間もやっかいだが、その前を通るときだけ視線に気をつければ――。

 一つ一つ点検していくと、そんなに、見つかる可能性は高くはないのではないか、と由香里は思えてきた。
 万が一見つかっても、それで終わりというわけじゃない。全速力で逃げて、その途中で誰かに見つかっても、それでも逃げて、逃げて――。顔さえ伏せていれば、そして闇夜にまぎれることさえできれば――。

 考えながら、由香里は、ぞっとする。頭の中に浮かぶ考えが自分が編み出したものだなんて。

 頭の中に浮かぶのは、躊躇いや失敗の怖れよりは、無謀に向かって背中を押すような理屈ばかりだった。

 ずっと裸でいたために、危機感が麻痺しているのだろうか。それとも――。
 窓を開けた。

 行くと決めたわけではない――。「もし行くとするならば」、外の空気をトイレに呼び込むことで、体を慣らしておいたほうがいいと思ったからだけだ。
 自分に言い聞かせる。
 真夏だというのに、外から流れ込んでくる空気は、由香里の体に不思議な寒気を起こさせた。

 本当に、やるの?

 由香里は、何度も何度も、自問したが、その答えは無かった。自分でも、自分がどこまで本気なのか、分からなかった。心臓が、すさまじい加速度でビートを速めていく。

 人に見つかるのは、恐ろしいことだ。
 だが、朋ちゃんに助けを求めるということは、少なからずこれまでの顛末を話すということだ。それだって、由香里にとっては耐え難い憂鬱であり、恐怖だった。
 数少ない味方に恥を晒し、ひょっとしたら、軽蔑されるかもしれない。二人のこれまでの仲は、二度と戻らないかもしれない。理恵子なんかのために。

 それよりは、危険はともなっても、今夜の出来事を先輩と由香里、それにあの鈴村だけの秘密として封印する道を選んだ方が――。

 未だに、本当に自分がやる気なのか半信半疑だった。誰かにやるな、と命令されば、喜んでやめたことだろう。しかし、この闇の中、由香里は一人だった。

 決断は、自分自身で下さなければならない。

***

 なかなか体は動かなかった。
 これまで、誰かに見つかる危険のある場所を裸でうろつくことはあっても、そこは店の中だった。
 今度は違う。
 柵を越えてしまえば、容易には帰ってこれない。川の中は薄暗いかもしれないが、物音を立てずに渡ることなど不可能だ。何より、視線をさえぎる壁が無かった。一度身を投じれば、数十秒の間、四方八方にその裸体を晒すことになる。

 考えが一巡りして、由香里の頭は――もう何週目かも分からない――同じ結論を弾き出した。やはり、無理だ。そんな賭けは、出来ない。

 しかし、だったら、朋ちゃんに電話をするというのか?――答えを出してから、結局、また振り出しに戻るのだ。
 女物の服。それにシューズ。それらは、わずか数メートルのところに無防備に晒されている。何時間もの苦闘が強いられるわけではない。賭けの結果は、わずか数十秒で出る。

 刻々と時は過ぎ去る。

 由香里の背中を、乱暴に押してくれるか、それとも、優しく肩を抱いて、引き戻してくれれば――。

 月を雲が覆い、窓から差し込む明かりが弱まった。

 ……ついさっき、由香里は窓から上半身を外へ出した。

 だったら今度は、全身を出してみることくらい、できないだろうか――。

 どくん、どくんと、心臓が胸を打つ。

――そんなこと考えるなんて、おかしいよ…。

 わたしは、本当に、やる気なのだろうか。

 違う。試すだけ。試すだけだ。

 怖いのは、引き返すことができないからだ。

 川に飛び込んでしまえば、こちら側へ戻ってくることは難しいが、出っ張りを伝って、柵に乗り移り、川に面した、しかしいつでもすぐに帰ってこれる、そんな位置まで移動するだけなら――。
 気配を感じれば、さっと引っ込めることができる、ぎりぎりの距離。そこまで、体を進めてみるだけなら、無謀ではないのではないか。

 何のために?
 気まぐれだ。何の意味もない。ただ、やってみるだけ……。試してみるだけ……。

 こうも考えた。

 ひょっとしたら、その場所からは、ここからは見えなかったものが見えるかもしれない。

 やってみて駄目なようなら、戻ってくればいいのだ。

 試すだけ。

 言い聞かせた。

 言い聞かせながら、内心では理解している。試すだけだとか、すぐ帰ってこれるとか、馬鹿げた嘘だ。

 中途半端に身を晒しても、リスクを高めるだけなのは、先ほどの入り口前の二度の通過の際、散々考えて得た結論だ。
 やるなら、一気に。

 自分で自分を騙そうだなんて、本当に馬鹿げている。自分に暗示をかけようたって、そうは簡単にいかない。しかし、由香里にはそうする他無かった。
 結論はもう出ていたのだ。裸で外に身を乗り出すなど、無理だ。だが、朋ちゃんに助けを委ねることは、絶対にできないのだ。

 だから、ムリなことを、やるほかないのだ。

 これまでもやもやしていた覚悟が、急に意味のある、重みのあるものへと置き換わって、ずしりと心に圧し掛かる。

 由香里の体は恐怖と興奮に震え、口元は固く結ばれていた。
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