灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第二十四話『二つの暗い炎――脱出の希望』

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2013 / 04 / 12  Fri
由香里Ⅰ   
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「誰?」

 先輩が言った。

 由香里は、答えなかった。

「……由香里、だよね?今、どうしてるの?……どうだった?」

 どうだった、とは、どういう意味か。面白がるような、真剣味のない声音。

「……水の音」

 慌てて蛇口を捻るが、後の祭りであるどころか、先輩に由香里の存在を知らせるだけだった。

「何だ、そこに、いるんじゃん。多分、トイレ……だよね。傍に、誰かいるの?服は着てる?」

 震える唇に神経を集中した。何を言おうとしたのかは、自分でも分からない。ただ、何かを言わずにはいられなかった。結局、それを言葉にすることはできなかったが――。

 先輩は、答えを聞かなくても分かっているかのように、続けた。

「独りなんだ。もう、他の店員さんやお客さんは帰ったんだね。……あんた、どうするの?」

 今すぐに、この悪魔の元へ向かって――髪を掴んで、ビンタを食らわしてやりたい。

「お店が閉まっちゃったんじゃ、私が助けに行くわけにもいかないしねえ。一応聞くけど、誰かに見つかったりはしてないんでしょうね?」

 黙したままなので、先輩が何かを言おうとした。
 言いかけた瞬間、由香里はそれを塞いで、言った。

「私は誰にも見つかってません。服も着ています」

 低く抑え、しかし怒りを込めて。
 何故そんな出鱈目を言ったのかは、自分でも分からないが、口をついで、自然に出た言葉だった。

「あの後、すぐに目を覚まして、隠された服を見つけました。だから――あんたに心配されるいわれなんて――ない」

 「心配」だなんて。心配しているとしたら、由香里が見つかることによる自分の身の破滅だけだ。こうして電話を掛けて来たのも、やってしまってから、冷静になって、怖くなったに違いない。引退の晴れの場である大会が間近に迫り、スキャンダルなど許されない状況なのだから――。

 そうだ。

 この悪魔に、復讐の機会があるとすれば――、大会を台無しにすることだ。
 もしこの悪魔が、この辱めによって、由香里から今期の大会を奪うことを狙っているのならば――。
 私は振りかざされた杭を奪い取って、逆にあの女の胸元へ突き立ててやる。

 由香里は、復讐に燃えていた。自分の身を救わねばならない状況だというのに――自分を追いやりながら、先輩に一矢報いようとしている――。先輩と同じように。

ここで言いなりになっては、負けだ。

「そう――それじゃあ、わたしの助けは必要ないわけね。それは安心したわ」

 平静を装ってはいるが、先輩は動揺しているようだった。衣服を着ている、という由香里の言葉が真実だとしてもここまで反抗的であることは、想定外だったらしい。

「それより、何よ。その態度は。忘れたの?あんたはわたしの奴隷――」

 イニシアチブを取り戻そうとしたのだろうが、火に油だった。言い終わるのを待たず、

「ふざけないで!」

 由香里は叫んでいた。怒りと憎しみの残響。向こうの空気が変質するのを感じた。

 驚き。それにやや遅れて、怒り、憎しみ。

 いまや、電話を介して、二つの復讐の憎しみの炎がにらみ合っていた。

「何が――何が、奴隷よ――いつまでも、ゲーム感覚でいられると思ったら、大間違いなんだから――。わたしは、わたしは、あんたと闘うから。最後まで、闘ってやる。最後まで闘って――楠田理恵子、あんたを破滅させてやる――。あんたがわたしにしたことを――必ず、公にしてやるから――そしたら、あんたの大会はおしまいよ――」

 受話器から、先輩が、息を呑むのを聞いた。
 今度は、こちらの番だ。やられっぱなしの人形だと思ったら、大間違いなんだから――。

「今度は、こちらの番よ。わたしが――あんたにやられっぱなしのおもちゃの人形だと思ったら、大間違いなんだから――」

 思ったことをそのまま、口にする。涙があふれてきた。
 封印していた過去の悔しい思いが、あふれ出ているだけではない。自分が始めて立ち上がり、猛然と闘っていることへの、感動の涙だった。

 だが一方で、恐怖が足元から伝ってくる。由香里には、何の策も無い。どんなにはったりをかましても、ここから抜け出す手立てなど――ありはしないのだ。

 受話器を持つ手が、震えてくる。今の決意は、本物だ。言ったことは、取り消せない。だが――ここで袂を分かってしまえば、由香里は真に孤独になる。

 思考を分断するように、電車が訪れた。
 そのとき――由香里は、聞いてしまった。

 電車の音が、二重に聞こえる。受話器と、窓の外。つまりこれは――。

 手で発話器を覆った。電車が通り過ぎてからも、しばらく二人は沈黙したままだった。

 理恵子は、駅の近くにいる。だから、電車の音が受話器からも聞こえたのだ。
 由香里を助け出そうという意思は、本物のようだったが――はっきりと拒絶した今となっては、無用の長物だ。
 それよりも、心配なのは――。

「そんなこと――させない。もし、今日のことを誰かに言ったら――わたしは――わたしたちは、写真を撮ってるんだから。あんたの――ふふ――」

 感情の高ぶりを隠しきれていない。由香里の方も、いまさらそんな脅しに屈することもなかった。それより気がかりだったのは、理恵子に携帯から環境音にまぎれた電車の音を聞かれていないかどうかだった。

「あの写真に写っているのなんて、せいぜいわたしの顔と、写っていても胸くらいのものでしょう?――そんなもので、わたしは揺らがないから。本気よ。絶対に、絶対に、許さないから」

 由香里ははっきりと言いきった。

 同じよ――わたしは、あんたと同じ。
 あんたを貶めるためなら――何だってしてやる。
 あんたがわたしを憎むなら、百倍憎み返してやる!

 由香里は、理恵子が激昂するのを待ったが、返ってきたのは、情けない強がりだった。歩きながら喋っているのか、声が奇妙に遠くなったり、近くなったりと不安定だ。

「あら――ちゃんと、ばっちり写ってるわよ。おっぱいだけじゃないわよお。赤ん坊みたいな体勢の、恥ずかしい格好の……」

 理恵子の強がりは、由香里の笑いにさえぎられた。
 本心から、可笑しかった。

 さすが悪魔だ――。平静を取り繕うのだけは上手い。それにしても――。

 それにしても、あんな強がりは滑稽なだけだ。

 わたしがあんたの知らない間に、どれほどの地獄を味わったか――。

 笑いながら、涙が、にじんでくる。由香里は、湧き上がる憎しみをぶつけた。

「仮にあんたの言ってることが本当だとして、何だって言うの?この――この、変態女!そんなことしたって、あんたの変態趣味を知らしめるだけ――」

 さきほどまでの卑屈さからは信じられないような、理恵子を馬鹿にしきった態度に動揺したのか、理恵子は黙り込んだ。

「――わたしは、かまわない。何も、恥ずかしいことなんてしてないんだから。恥ずかしいことをしてきたのは、あんたでしょう?」

 言いながら、涙声になる。

 これも、本心だった。

「わたしは――かまわない。わたしの体のどこを、誰に見られたって、そんなの気にしやしない。あんたを――あんたを地獄に引きずり込むためなら、何だってできるわ――。街だって裸で歩いて見せるわよ!あんたの写真なんか、脅しにもなんにもならない――!」

 次々と言葉が溢れて来る。涙でぐしゃぐしゃにしながら、由香里は呪った。

 これも――本心、だろうか?

「由香里」

 由香里の動揺ぶりを見てかえって平静を取り戻したのか、再び冷たい声音で、理恵子が呟いた。

「あなたがわたしに逆らおうが勝手だけど……雨宮さんがその気なら、わたしはあなたと戦うよ。無傷のままでいられるなんて思わないでよね。場合によっちゃ、あんただけじゃない。あんたにいつもまとわりついてる、あの朋子とかいう子だって……」

 その名前を聞いたとたん、冷たい衝撃が体を貫いた。

「わたしは、わたしは――」

 言葉に詰まり、生唾を飲んだ。

 そんなこと、させない。わたしは……一人で戦う。誰も巻き込まず、自力でここから抜け出してやる……。

 先輩にとっては、由香里より先に、店員に衣服が見つかる、というハプニングは、想定外のはずだ。由香里が真の現状を打ち明けない限り――本当に助けは必要ないのだと信じ込むだろう。

 朝までここに閉じこられることを選んででも、先輩と闘うか。それとも、この魔女への服従を代償に、この場から脱出するか。
 決断は、由香里にのみ掛かっている。

 沈黙の中でも、二つの復讐の炎が、受話器を介して、じりじりとお互いをけん制しあうのを、由香里は感じていた。

「ねーえ、強がりは結構だけどさ、気が変わったときのために、降参の合図を教えてあげる」

 理恵子は、笑いを堪えているようだった。何がそんなに、可笑しいのだろう。

「お尻を丸出しにするの。それから、二階の廊下の窓から見えるように、逆立ちを――」

 通話終了ボタンを探し当てた。震える指で、ボタンを押した。

***

 電話が再び鳴ることはなかった。
 理恵子には、写真なんかばら撒かれたってかまわない、と言った。
 由香里は、理恵子がシャッターを切ったときのことを思い返していた。あのとき、果たして、どれくらいまで撮られていただろうか。
 シャッターの光をはっきり見たから、顔は映っていることは間違いない。だが、あの距離から撮影したとして、理恵子が言うようなものが収められるとは、到底思えなかった。

 あれは、ただの強がりだ。由香里は、そう自分に言い聞かせた。

 先のことより、今のことだ。

 希望はある。理恵子に頼らずとも、最悪の場合は――朋ちゃんに打ち明ければよいのだ。
 このシンプルな手段に、気づかなかったわけではない。
 ただ、朋ちゃんに現状を知らせることはできても、密室から脱出し、衣服を受け取る手立ては、どちらにしろ無いのだ。
 それに、朋ちゃんに助けを求めるということは、恥を打ち明けるということだ。由香里がさせられた――「自分からしてしまった行為」は隠しおおせるとしても――行為を知られることが、辛かった。何より、由香里が屈したことを知ることで、由香里を見る眼差しが、穢れてしまうのが、怖かった。

 由香里がいじめを受けていることは知っているはずだった。もちろん、知っていることを表には出さないし、由香里も朋ちゃんには打ち明けなかったが、風の噂で聞いたのだろう、ずっと前から、理恵子を見る目に軽蔑が篭っていたのを、由香里は見逃さなかった。

 思えば、先輩が朋ちゃんに辛く当たったのも、由香里の数少ない友人だからというだけではなく、普段の静かな敵意を感じ取っていたからではないだろうか。

 そんな朋ちゃんに、堕落した自分の姿を見られたくなかったし、知られたくもなかった。今の今まで、頭の片隅に浮かびつつも、必死に否定し続けたのはそのためだ。

 だが、今は違った。最悪の場合は、朋ちゃんに恥を晒し、これまでの関係が失われたとしても、ここから脱出するつもりだった。

 全ては、復讐の為――。

 そうはいっても、朋ちゃんに秘密を打ち明けることを考えると、気持ちは沈むのだった。

 できれば、誰も巻き込みたくはない。そのために、出来る限りのことをしなければ。

 由香里は、携帯電話を握りしめた。もうひとつの希望――。それは、階下にある。

 没収された衣服――。

 ひょっとしたら、階下に見つけることが出来るかもしれない。

 期待の入り混じった緊張。
 由香里は一階の風景を思い浮かべた。階段を降りてすぐのところに、大きなガラス扉がある。まず、そこが難関だ。店の外には滅多に人の行き交う気配は無いが、最悪の場合、誰かに裸でいるところを見られてしまうという事態もありうる。

 今は静かかもしれないが、ついさっきまで多くの人のいた場所へ向かうのだ。

 トイレの扉をゆっくりと開ける。木製の扉と金具がきしむ音が、静かな店内に響き渡る。

――店内は相変わらず、月の光だけの薄明の世界だ。

 大丈夫、誰もいないんだ。

 曲がり角まで慎重に近づく。曲がった先には、窓がずらりと並んでいる。腰をかがめながら、物音を感じたらすぐトイレに駆け込めるよう、聴覚を研ぎ澄ませる。

 ほとんど四つんばいになりながら、曲がり角から盗み見るように、廊下の様子を伺う。窓から、駅が見える。駅は蛍光灯でぽつぽつと、照らされている。

 そして、重要な事実に気づく。

 忘れていた。電話をしていたついさっきまで、理恵子は駅にいたということを。

 あの電話の後、電車が一本でも来ただろうか。

――分からない。電車の音を、聞いた様な気もするし、その逆のような気もする。
 あの電話の後、もう理恵子は去ったのだろうか。もし、まだ去っておらず、駅にいるのだとしたら――。最後のあの、合図とやらが、もし本気だったとしたら……。
 やはり、念を入れて、電車が来るまで待つべきだろうか。もし帰る気なら、次の電車を乗り過ごすということは、ないだろうし――。

 いや、それだって、由香里がすでに店内にはいないと理恵子が信じ込んでいたならば、という仮定の話だった。
 ひょっとしたら、由香里の状況を疑って、念を入れて外で見張っているのではないだろうか――。

「水の音――。トイレね」

 理恵子の、恐ろしい程の勘のよさ。蛇のような眼差しで、暗い店内を睨む理恵子を想像して、身震いした。

 念を入れて、次の電車が来るまで待とうか――。

 いや――。

 今は、そんな悠長な状況ではない。

 朋ちゃんに助けを求めるか、求めないか。
 決断は、早ければ、早いほど良い。さすがに、終電を心配するにはまだ早いかもしれないが、少なくとも朋ちゃんはいつまでも起きているわけではないのだから。

 少なくとも、店内は無人だ。誰もいない。それは間違いの無いことだ。あるはずも無い影におびえて、時間を空費するなど、そんなばかばかしいことはない。

 問題は、店の外――。

 立ち上がって、窓から駅の様子を見ようか――。
 いや、それはかえって、危険なだけだ。こちらから見えるときは、相手からも見えているのだから。

 曲がり角から頭を出した。廊下の壁は薄明の中、真っ直ぐ薄黄色のグラデーションを描く。その途中で、ちょうど月明かりを階下へと吸い込むように空間がぽっかりと開いている。

 階段までは、腰をかがめて移動すれば、窓の外から先輩から見つかることは無いだろうが――。階段は踊り場でU字型に折り返すのだ。つまり、踊り場から先へは、駅に向かって下りていくこととなる。しかも、店の透明な自動ドアの入り口が、真正面とは言わずとも、正面からやや左へ反れたところにあるのだ。つまり、外からは丸見えだ。

 それに確か、レジ打ちは階段を降りて左の側にあるのだ。つまり、嫌でも入り口のガラスの前を通らなければならない――。

 思い切りが必要だ。

 行くなら行く。中途半端が、一番危ない。おそらく、踊り場から先は入り口からは見えてしまう領域だ。そこから先、階段を降りきって、入り口の前に出て――レジのあるカウンターの向こう側へと繋がるところが、階段に対して手前か奥だったかは思い出せないが、とにかく、全速力で駆け抜けて、カウンターの中へと進入しなければならない。一度テーブルカウンターの内側に入ってしまえば、腰をかがめて移動すれば、外から見つかることもないだろうが――。

 思った以上に、難しい。見られているかどうかなど、気にする余裕すらないだろう。外を慎重にうかがいながら、タイミングをうかがって、などというわけにはいかない。数秒の間、視覚的には外と隔たりの無い空間に身を晒さねばならない――。博打だった。
 電車が通り過ぎるまで、曲がり角で待機することにした。時間の節約を考えれば、踊り場の直前で待機した方がいいのかもしれないが、安全の保障されたトイレから離れた場所で待つだなんて、とてもそんな気にはなれなかった。やはり、まだ店の中に人がいなくなったという実感を持てずにいるのだろう――。
 
 神経を尖らせながら、由香里は待った。こうしているうちにも、時間は刻一刻と迫る。電車の音を待つのは、絶対、これで最後にしよう――。

 由香里にとっては長い長い時間。
 待っている間、由香里はお守りのように携帯を握っていた。この携帯は、暖かいうちのベッドやお風呂との、朋ちゃんとの、そして――殺してやりたいほどに憎い、あの女との――つながり。
 今の由香里に残された、唯一の――。

 そこまで考えて、ふと思いつく。

 テーブル席に置いて来た、鞄のことだ。空っぽの鞄――それに、理恵子の体温計。
 
 鞄を投げ捨てた後、携帯を見つけたものだから、忘れていたが――。あの後、すっかりそのままだ。鈴村が、女店員に怒られたのを思い出した。

「何よ、ここ、ちっとも片付いてないじゃない!」

 その後、鈴村はテーブル席のゴミを片付けて――。一体どこへ――。

 記憶を順にたどってみる。

 確か、体温計と鞄を見つけた後、トラッシュボックスを確かめにいって、そこで、おそらくは店長と思われる男の横顔を見て――。

 由香里が一つの場所を思い当たったのと、その声が聞こえたのは殆ど同時だった。

 ……○○行きの、電車が参ります――。

 聞きなれたアナウンス。ほとんど無人駅に近いさびれた駅らしい、寂しげなコール。

 来た……!

 胸が高鳴る。いよいよだ。小さく深呼吸をする。

 と、そこで気がついた。電車には、行きと下りがあるのだ。電車を一つ確認したところで、それが先輩の乗る電車かどうかなど、分からないではないか――。今のは、どっち方面の電車だろう――。

 もし先輩の乗る方面でなければ――。

 だが、由香里は既に走り出していた。これ以上、もう、待ってはいられない。
 また胃のねじれるような数分間を味わうなど、精神的に堪えられそうになかった。

 息が苦しいのは、腰をかがめて走っているというだけではないだろう。一歩足を踏み出す度に、確実に、関門に向かって近づいているのだから、当然だ。

 そして由香里は、階段の直前に至った。立ち止まらず、そのままトラッシュボックスを通り抜けた。そして、月光を背中に浴びながら、階段を下る。

 腰をかがめながら、足を踏み外さぬよう、しかし決意の変わらぬうちに、すばやく、一歩ずつ。

 そして、とうとう、片方の踊り場へと躍り出た。今は二階へ続く側にいるため、入り口からは見えないが、少し身を乗り出せば、自動ドアから睨まれる位置にある。

 由香里は、その場で立ち止まった。
 殆ど同時に、電車のドアが閉まる音がする。

 危険地帯に差し掛かったことへの怯みからではなく、ある懸念からだ。
 電車が遠ざかる音を聞きながら、由香里は自分の考えの浅さを嘆いていた。

 由香里が電車の音を待って出発したのは、理恵子が去っている確立を高めるためだったが、そんなことより、もっと重要なことがあったのだ。理恵子がいるかどうか以前に、まず駅には他の乗客、特に次の電車を待っている客や、電車から降りたばかりの客がいるのだ。そのことを、すっかり計算に入れていなかった。

 理恵子がいるいないにかかわらず、電車に合わせて行動するのは当たり前のことだったのだ。
 
だとすれば、いつが最適なタイミングだろう。

 最悪なのは、電車が駅に停車しているときだ。電車から降りてくる客が、こちら側にある改札に向かってぞろぞろと向かっている。

 次の電車を待っている客はともかく――電車から降りた客はすぐに去るのだから、最適なタイミングは、電車が去って、数分経って以降、しかもできるだけ早く……ということにならないだろうか。

 由香里は体は確実に踊り場の死角に納めながら、視界の隅で階下の様子を伺った。
 思ったよりは、暗い。殆ど漆黒といってもいい。恐らく、店の入り口以外には、外から光を取り入れる大きな要素はないのだろう。入り口周辺以外は、特に見つかる可能性は低そうだった。

 行こう。
 
 今から数分は、駅を降りた乗客がいなくなるのを待つ。だが、あまり待ちすぎても、駄目だ。
 携帯を踊り場に置いた。必ず、ここに戻ってこよう。

 ただの小さな機械なのに、手放してしまうと、不安になる。
 自分が素っ裸だという感じが強調されるからだろうか。

 絶対に、振り返るな、振り返るな…。

……

 絶対に……。

……
 


……

 そして由香里は、足を踏み出した。
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