灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第十六話『危険な徘徊 ―― 振り向いた男』

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2012 / 09 / 17  Mon
由香里Ⅰ   
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 腿裏に触れた座席の冷たさが、由香里の体をいっぺんに駆け上っていった。底知れぬ冷たさを湛えた現実が、少女を浸していた。
 衣服は消えていた。カバンもひっくり返すようにして探したが、無かった。
 消えたのはそれだけではない。バスタオルも無い。水着もない。携帯も無い。手帳も、財布も無い。

 ああ、せめて携帯さえあれば、外部と連絡をすることができたのに――。

 机の上にはポケットティッシュと、由香里達の食べ終わったゴミが散らかっていた。少し離れた床には、体温計。

 急に由香里はひらめいた。ゴミ箱。そうだ。確かにあったはずだ。階段を上がったところに、トラッシュボックス――。

 由香里は動いていた。自分でも驚くほど大胆なことに、再びあの場所に戻ったのである。たとえそれが、ゴミ箱に残飯とともに捨てられたものであったとしても、この体を隠すものがほしかった。

 曲がり角まで来て、由香里は立ち止まる。由香里を警戒させたのは、階下の騒音や廊下にずらっと並んだ窓の月明かりだ。二人席に一つずつ、車のサイドガラスほどの窓がはめ込まれている。由香里は、角のまん前にある窓に目をやった。今日ここに駆け込んだ時、二人席でうつぶして泣いたことを思い出した。

 いつの間にか外にあるのは夜の世界だった。こんな田舎では、駅前とはいえ夜になっても明かりと呼べるほどの明かりは殆ど無い。窓を通した光は夜空に浮かんだ月と、車のヘッドライトのセピア色の明かりだけだ。夜の窓にかすかに自分が映っているのを見て、由香里はとっさに目を逸らした。自分の姿を見るのが恐ろしかったのだ。一瞬の間に由香里の網膜に焼きついた自分の姿は、月明かりに照らされて、青白くぼうっと浮かび、亡霊のようだった。

 角から顔をのぞかせて様子を伺ってみる。トラッシュボックスらしきものは、確かに階段のそばにあった。ただし、吹きぬけを挟んだ手前ではなく、奥の角に。そこに行くためには、階段の前を通らなければならない。

 誰かが昇ってくるなら、この騒音の中でも、何かしらの足音がするはずである。少なくとも、足音を潜めたりしない限りは。
 安心はできない。
 早まる呼吸を必死に抑えて、由香里は必死にシミュレーションした。安全を確認したらすぐに駆け出し、トラッシュボックスの中から衣服を取り出し、そのまま走りきって、別の曲がり角の先にあるトイレに駆け込む。

 体は回復していた。全力で走れば、ここからトラッシュボックスまで五、六秒で行けるだろう。
 ただし、廊下には窓がある。立ったままなら、肌を露出した上半身が外から見えてしまう筈だから、腰を屈めて動かなければならない。

 由香里は息を止めた。そして、窓の桟を潜るよう中腰のまま、駆け出した。

 少女の白い背中を、ずらりと並んだ窓が変わりばんこに、月明かりで照らしていった。

 由香里は息を止め、しかも裸足だ。物音は全く立たなかった。
 階下の騒音が急に大きくなった。

 吹き抜けはそのまま過ぎ去る。途中、視界の端に水溜りを捕らえた。しまった、と思う。水溜りの始末をどうするか、まるで忘れていた。

 吹き抜けを通り過ぎたところで、由香里はしゃがみ込んだ。壁に埋めこまれるような形で、トラッシュボックスはあった。

***

 すぐに中をのぞくより先に、ポケットティッシュから、紙を丸ごと取り出した。紙を池の上に重ねると、汚れるのも構わず、わしづかみにして拭い去る。思っていたよりもぬるい。嫌悪感に躊躇する暇など無かった。
 粗相の痕跡を消した。床はまだところどころ湿ってはいたが、時間はかけられない。

 しかしその時、ゴミ箱に衣服が放り込まれているという確かな保障など、何もないことに気づいた。普通の思考をしていれば、由香里を裸にしたまま、衣服を持っていくなんてことはできない筈だが……何せ、先輩は狂っているのだ。

 これほど危機が迫った状況でも、そのトラッシュボックスを開けるのには勇気を奮い起こす、一瞬の時間が必要だった。

 由香里は尿を拭いたティッシュを床に置いた。

 蓋を押し開けた。

 ゴミ箱の蓋に肩まで腕を突っ込んで、生ゴミの中を漁った。嫌悪に顔を歪ませながらも、一縷の希望を祈りながら。


 紙や氷、残飯の中を探っていく。

 布のような手触りのものは見当たらなかった。

 だが、トラッシュボックスの中は結構広く、深いから、あるいは――。

 ……違う。

 冷静に考えれば、もうどれだけ探しても、あるはずがないのだ。
 由香里は気づき始めた。先輩がここに由香里の衣服を放り込んだとして、それならばゴミ山の一番上にあるはずなのだ。

――最初にゴミ山をかき回したときに、埋もれてしまったのかもしれない。

 慰めでしかないことに由香里は気づいていた。それでも、浮浪者のように、夢中でゴミを漁り続けた。
 由香里はいつの間にかベソをかいていた。そのことに、驚きはしなかった。むしろ、これまで涙を流していなかったことに驚いた。
 泣いて当然だ、と由香里は思った。今、自分はこんな酷い状況にあるのだから。

 そのとき…。

 それはあまりにも突然だったので、一瞬、耳を疑った。

 もう一度、耳を澄ます。
 間違いない――。
 フローリングの床から、靴底のゴムが剥がれる音――。

――来た!

 店員が、来たのだ。由香里のすぐ目の前にある、吹き抜けの下から。
 逃げよう――。
 全裸の自分のいる場所に、ものの数秒で現れる筈だ。迷っている暇は無かった。

 しかし――。

 ヒキガエルが、喉を鳴らしたような音。

 不気味なその音が、短く、一、二度、鳴り響いた。

 階下からではない。

 暗闇。廊下の曲がり角の向こう。つまり、先ほどまで由香里がいた袋小路の方から、その音は響いていた。
 硬直したのは、体だけではなかった。その物音が何なのか、由香里の頭が理解するまでに数秒をロスした。

 ――携帯。携帯のバイブ音が立てる音だ。

 殆ど、理性が飛んでいた。数秒前の自分は、トイレに逃げ込め!と叫んでいた。しかし今の自分は――。

 携帯のある場所、つまり、由香里たちの座席の場所へ向かえと言っていた。
 理由は、分からない。それは、殆ど直感的なものだった。携帯の音は、ほぼ間違いなく、自分のものだ。その携帯を、自分より先に、店員達に奪われたら――。

 ジレンマに体は動かなかった。足音は更に近づく。

――ここから動かないと……!

 だが、結論が出ない。いや、もはや、思考などしていなかった。極限の中で、却って時間の感覚が振り切れてしまっていたのかもしれない……。

 けたたましい、鋭い金属音が鳴り響いた。無意識に、ゴミ箱に入れていた手を引き抜いていたのだ。
 その音に弾かれるように――由香里は駆け出していた。

 ……光のほうに。

 二、三歩駆け出し、吹き抜けから漏れる光のただ中に飛び出して、ようやく、自分のとった選択に驚愕する。だが――もう駆け出してしまった。階段の前を通りすぎ、光は今、由香里の背中にある。

 これが自分の選択だ。進むほか無い。

 だが、再び足が竦んでしまった。

 自分のやっていることが分かっているの?いくら、外界との唯一の繋がりである携帯の存在があるにしろ、袋小路に逃げ込むなんて――。

 しかしそれ以上の思考をつむぐことはできなかった。由香里の身も心も、プールの前の、冷たいシャワーを浴びたときのように、縮みきっていた。
 
 由香里は振り向いた。引き返そう――。

 そのとき――階下から、話し声が聞こえた。心臓が跳ね上がる。一方研ぎ澄まされた神経は、それと殆ど同時に声の主の居場所をはじき出していた。この声のこもり具合は……まだ、踊り場まではきていない……。
 由香里は走っていた。身をちぢこませて、動物的なセンスによって全く音をたてずに、階段の光に向かって走っていった。走りながら、思った。彼……いや、彼らの居場所に、確信は無い。ひょっとしたら、自分の判断は誤りで、彼らは、もう間に合わないほどすぐ傍まで来ているのかもしれない。

 それでも由香里は方向を変えなかった。もう自分は動き出してしまったのだ。ここまで、来てしまった。
 光のなかに突入するまで、あと一秒も掛からないだろうところまで来た。

 ――一か八か。

 覚悟を決めかけたそのときだった。また、「彼ら」の会話が飛び込んできた。その声は、やはりまだ遠かった。今度こそは、間違いないはずだ。確かにそれは、直接届いたような澄んだ音ではなかった。

 しかしそれなのに、由香里の足は、あと直前のところで失速し、竦んでしまった。
 野太い、オトコの声が、由香里を怯ませてしまった。

 再び、男の声。心臓が跳ね上がり、引き返しかける……が、その声は、明らかに下方で、また自分とは別の方向に向かって放たれていた。
 由香里はすばやく計算した。男は、階段の数段目に足を指し掛けながら、カウンターの方を向いて、何か言っているようだった(会話の具体的な内容は、由香里の頭には全く残らなかったが)。しばらくの間――といっても、それはほんの数秒のことだが――隙がある。

 今しかない。

 やるべきことは、明白だった。

 由香里はその一歩を、しかし、踏み出せなかった。

 駄目だった。怖かった。殆ど形をとどめていない由香里の思考に、何故か声の主への生々しいイメージが鋭く走った。
 若いが、自分よりは年上だろう。乱暴な声だから、少し強面の人だ。不精髭を生やした、若い男が、裸でいる自分のすぐ下にいて――間が悪ければ、鉢合わせするかもしれないのだ。

 勇気を持てずにいる由香里のすぐ真下で、店員はまだ会話を続けていた。なにやら、カウンターにあれこれと指示しているらしい。あがってくる気配が見えたら、すぐに逃げよう――。しかし今こうして話している間は、安全なはずなのだ。

 顔だけ出して、階段の様子を伺おう。もし誰かが踊り場まで来ていたとしても、少なくとも、その視線は一階に向かっているはずだ。
 唾を飲もうとしたが、口内は乾ききっていた。
 由香里は足を踏み出す――。

***

 壁にぴったりと体を貼り付けて、自分の顔以外、肌色をさらさまいとばかりにしながら、由香里は顔を覗かせた。

 数秒の後、由香里は再び物陰に隠れた。

 それはいた。

 少なくとも男が一人、踊り場まで来ていた。ただ、その視線は一階へ向けられていた。由香里が見たのは、踊り場の手すりを握った男の無骨な手の甲と、刈り上げられた後頭部だけだ。

 しかし、その影響は破壊的だった。いくら男の注意が階下に向けられているとはいえ、首を捻れば、二階の廊下に繋がった空間が、丸見えである。
 由香里がそこを横切るのに、一秒も掛からないだろうが、その一瞬の勇気が、由香里には奮い起こすことが出来ない。

 行くしかないんだ――。

 由香里の決意とほぼ同時に。
 男の会話が止んだ。

 由香里は動かなかった。
 いや、動けなかった。

――引き返すべきだ。それは、分かっている。だが、できなかった。自分から、袋小路に逃げ込むなど。無論、トイレにも逃げ場は無いが、少なくともそこには鍵付の扉があるのだ。

 騒音の中で、吹き抜けの周りだけ、沈黙で覆われた気がした。もっとも、それは一瞬のことだったが。
 男は会話をしている気配はない。
 だが同時に、足音もしない。
 今しかない。由香里は足を前に差し出した。

 ――そのとき、由香里の視線があるものを捕らえた。

 あっと、小さく呟いた。

 小水を拭いたティッシュの山。置き忘れていたのだ。

 気づけば、由香里は足を踏み出していた。

 足が地面に着くが早いか……しまった、と気づく。
 左を見た。
 そこには男がいた。今度は、後頭部の一部だけではない。
 刈り上げにした、鼻の高い長身の男が、踊り場に立っていた。

 その顔はうつむいている。
 腕時計を見ているのだ……。

 男が顔を上げ、こちらを振り向いた。
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