灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第十五話『一人ぼっち ―― 消えた衣服』

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2012 / 09 / 15  Sat
由香里Ⅰ   
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 意識が目覚めたときに由香里が見た殆ど残影のような風景は、V字型の淡い黄白色の枠に収まった青だった。
 由香里はしばらくの間、ぼんやりとその青を眺めていたが、やがてその青が階段の踊り場の壁の色であること、そして肌色の枠がそれに向かって広げられた自分の足であることに思い至った瞬間、言葉にならない叫びが全身を包んだ。
 だが、由香里の体は動かなかった。一瞬、自分の目の前に広がる白い谷はは自分の体ではないのではないかとすら疑う。焦点が定まるにつれて、V字の窄まりに黒い茂みをぼんやりと見たとき――由香里の焦りは頂点に達した。今自分は、階段に向かって股間を見せ付けるように、広げているのだ――。

 体は魔法でも掛けられたように、全く動かない。

 耳鳴りが激しく、外界の音は殆ど感じ取れない。心臓の音だけが、鳴り響いている。
必死に体を気張ろうとするが……力が入らない。というより、自分の体の居場所が分からない、という感じだった。

 視覚と聴覚が戻ってくるにつれ、それほど長い間気を失っていたわけではないらしいことが分かった。二階は依然として薄暗いままだ。激しい耳鳴りの隙間から聞こえてくる階下の物音からして、騒がしさは相変わらずのようだ。

 先輩以外の誰かに見られたわけでは、恐らくないらしい。少なくとも、今由香里のいる二階に人の気配は感じなかった。気を失っている間に見られた可能性もありえないわけではないが……しかしとりあえずのところは、幸いと言えるだろう。
 問題は先輩までもが、姿を消しているらしいことだった。
 四肢に力をこめる。
 浮いた。

 だが、そのとき生暖かい何かが、尻の浮いた隙間に流れ込んできた。

 背中から、悪寒が広がっていく。

 足の裏を動かすと、液体がぴちゃぴちゃと音を立てた。目を凝らすと、辺りの床に小さく池が広がっていた。その池は階段に流れ込む直前で、階段の角に備え付けられたゴム製の滑り止めに阻まれかろうじて押しとどまっているようだった。

***

 ――どうしよう。

 思考は形をとどめなかった。場所を変えようにも、体は麻痺したかのようにおもむろにしか動かない。尿の池の真ん中で、生まれたての小鹿のように、濡れた体を震わせることしかできない。

 何かが手に触れた。それがポケットティッシュだと理解するのにすら、数秒の時間を要した。先輩が置いていったようだ。

 これで、拭けとでも言うのだろうか――。

 恐怖と焦燥の中では、何も感情は起こらない。

 由香里は脚に痺れを感じ始めた。感覚が戻り始めたのだ。次第に痺れはほぐされ……そして両脚は、由香里の念じたとおりに、ゆっくりとだが、閉じていった。
 秘所が腿の肉の中に閉ざされた。
 ようやく思考力が戻ってきた。やるべきことは見えてきた。尿の始末も至急だが、まずは身を隠すことが先決だ。それが由香里の判断だった。合理的かはともかく、今は一刻も早く、この開かれた空間から隠れたかった。

 座席に戻って脱がされた衣服を取りに行って、トイレに駆け込む。

 普通ならそう時間は要しまい。が、今の由香里は体が自由に動かないのだ。何度か体を持ち上げようとしても、手足の筋肉は小刻みに震え、へたりこんでしまう。

 由香里は先輩が残したポケットティッシュを掴むと、歯を食いしばりながらうつ伏せになると――這った。
 涙に濡れて少ししょっぱい唇を噛みながら、由香里は無我夢中で、尿に塗れながら体を引きずり続けた。
 階下の騒音は未だに背中を刺すようにこだましている。その中に、先輩の笑い声が混じっているような気がした。朋ちゃんの名前を、おまじないのようにつぶやきながら由香里は全身をくねらせる……。

 角を曲がりきり、暗がりの内に入ったとき、あまりの安堵感に涙が溢れてきた。

 脳のほうは少しずつ力を取り戻してきたらしい。現状を整理して飲み込めるようになった。
 先輩によって呼吸を封じられ、由香里は気を失ってしまったようだ。どうやらそのときに、失禁してしまったらしい。先輩はそんな由香里を放置して、そそくさと立ち去ってしまったようだ。

 由香里が気絶したことに動揺してだろうか。

 恐らく違うような気がした。事態を大事にさせないためには、手早く粗相の始末をし、由香里に服を着せるか、最悪でもトイレにでも身を隠させるべきなのだ。何故なら、そうしなければ、様子を伺いに戻ってきた店員に――。

 そうだ、店員――。

 もし先輩が、彼らに何も言わず立ち去ったなら、彼らが様子を見に来る可能性は高い。一体、気絶してからどれほどの時間が経ったか。皮肉にも、自分を浸らせていた嫌悪を催す池が、気絶していた時間がそれほど長くないことを物語っていた。尿は由香里の体内にいた頃の温度をかなりの程度保っていた。匂いもそれほどきつくない……。

 そんなことを考えて、思わず由香里は頬を赤らめた。

 心臓の早鐘に合わせて、全身の血が震えている気がした。
 由香里は、少し小さくなった階下の物音に意識を集中させた。特に異常はない……と思う。と言っても、あの騒々しい中、店員が階段を上がってきても、由香里に気づけるはずも無いだろうが。
 由香里は進んだ。コの字型のフロアの行き止まりの座席。あと少しで、衣服のある場所にたどり着くが、その前に……。途中のクッション席にしがみついて、由香里は足に力を入れた。最初はクッションに、そして次はテーブルを頼りにして、重たい体を持ち上げる。そして…とうとう、立ち上がった。しばらく深呼吸して、手をゆっくりと離してみる。
 大丈夫だ。まだ少し頼りないが、しかし一度体勢を取り戻すと、不思議と力が湧いてきた。まだくらくらするけれど、壁伝いになら、十分歩けるだろう。
 一歩、また一歩。右手は壁を、左手はテーブルを支えにして、足を進める。腿の内側が擦れあって、大腿が尿で濡れていることに気づく。手でお尻を触ってみると、かなりの範囲に渡って湿っているようだった。あとで拭かないと……そんなことを思いながら、一歩、また一歩、と小さい歩みを重ねていく。
 全裸のまま、両手を広げて歩いていることに奇妙な非現実感を抱かずにはいられない。
 ……考えるちゃだめ。今はとにかく、事態を隠蔽することに集中。

 そう言い聞かせても、敏感な自意識は、これほどの暗がりの中でも見てとれるであろうほどに、由香里の頬を赤面させた。唯一の救いは、それを目にすることができる人間はこのフロアにはいない、ということだ。

 ……あと少しだ。

 余裕が出てきたせいか、歩きながら、由香里は階段の前に残してきた池のことを考えた。もちろん、あれを店員に見られるのはまずい。だが、それ以上に裸の姿を晒すわけにはいかないのだ。まずは、服を着よう。座席で体を拭き、そして服を着て…。それから…。

 座席のすぐそばまでに到達した。磨りガラスに、由香里の鞄らしき物体が写っている。
 何故か、動悸が早まる。
 更に進むと、テーブルの上の由香里のかばんがはっきりと見えた。先輩の荷物は、ない。
 それでいい。いかに今の状況がピンチであろうと、少なくとも、もう、あの魔女はこの場にいなくなったのだ。

 助かった……。

 あとは、速やかに服を着て、粗相を始末した後、この悪夢の現場から立ち去るだけだ……。
 しかし、希望に浸れたのは本当に束の間のことだった。

 無かった。

 何度目を凝らしても、それは見当たらなかった。

 ああ、もう嫌だ。一体、あいつは何を考えているのだろう――。

 先輩に脱がされ、放置されていたはずの由香里の衣服が、どこを探しても、見つからなかった。
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