灰色の手帳 由香里 ―水底から― 第三十一話『悪戯――真夜中の玩具人形』

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2013 / 06 / 12  Wed
由香里Ⅰ   
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 ロッカーの中にある筈の衣服は、姿も形も無かった。

――そんな……嘘でしょ……。

 手を入れても、むなしいステンレスの音が響くだけだった。

――騙された……?

 酸素不足の肺に、一気に空気が流れ込む。頭がくらくらする。

――嘘だ、嘘だ……。

 気を失ってしまいそうだった。

 ロッカーの鍵と番号を確かめる。
 ロッカーの番号も、鍵についた番号も、両方とも”203”だ。

 空のロッカーから、視線をそらすことが出来なかった。
 誰かが、遠くから自分の間抜けさを嗤っている様に思われた。

 ふと、ロッカーの中に、開けっ放しのものがあるのを見つけた。

 一段目の一番端。

”101”――!

 微かな期待を胸に、由香里はしゃがみ込んで、覗き込んだ。由香里の膝くらいまでしかないために、かなり苦労したが、結果は期待に反するものだった。

 無い……。

 ここも空だった。

 状況は絶望的だった。

――どうして……。

 背筋が凍る。
 寒気と反比例するように、顔が上気してきた。

 色々な考えが、頭を駆け巡る。

 騙された……今この瞬間も、あの女は私を見ているのだろうか……笑っている?……ここは……駅のど真ん中……素っ裸で……今は誰もいない……だけど……本当に?……誰もいない……昼間は大勢の人が……行き交うそんな空間の中心で……誰もいない……わたしは何もまとわず……誰もいない……誰もいない……体が熱い……誰もいない……誰も、見てない……パンツも履いてないのに……誰も、誰も、誰も……。

 背中で、車の走り去る音がした。

 心に開いた穴に、冷たい現実が流れ込む。どこか夢心地だったこれまでの気分は消えていた。
 ここは夜中の駅だ。そんなところで、私は素っ裸で、明かりに照らされている。

 動くことができなかった。

 どうして、こんなこと――。

 汗がぽたりと、地面に落ちた。
 顔を覆った髪は、いつの間にかびっしょりだった。
 誰でもいい。男の人でもいい。

 誰か優しい人に、肩をぽんとたたいてほしかった。そうしなければ、由香里はここから立ち上がることすらできないだろう……。

 どこか遠くで、トラックのバックする音が聞こえた。

――みんな、ひどい。

――どうして、どうして、いまになって。

 それとも、ずっと夢中で、聞こえなかっただけなのだろうか。
 ここは街だ。幾人もの人が生活している、街なのだ……。

 嫌だ。こんな中を、自分は素っ裸で走ってきたというのか。
 引き換え返すだなんて――またあの道路を横断するなんて――出来っこない……。

 引きつった顔。無数の冷や汗。ロッカーの前にしゃがみこんだまま、体を丸めて、震えていた。

 時間が経てば経つ程に、動き出す気力は萎えていった。

 戻らなきゃ。でも、怖い。ここを離れるのが……。
 埋めた顔をあげた瞬間、立ち上がった瞬間、お尻を持ち上げた瞬間、わっと、笑い声が上がるような気がした。あの女のいうように、万座のステージにいるようだった。

 わたしは、誰かが背中を叩いてくれるまで、こうしているのだろうか。
 抵抗を感じる。そんなの、嫌だ。
 しかしだからといって、体が震えて、ここから動けないのだ。
 メールの中のふざけた文章が、頭の中で、理恵子の声として再生される。

 まるでスポットライトの中の見世物のように照らされた自分が、惨めで仕方が無かった。
 奮起しようと思い出そうとしても、数々の怒りの記憶は、やがて理恵子の甲高い嘲笑へと収束していった。

 ……ふいに、少女は立ち上がった。

 ”203”の前に、よちよちと進む。

 由香里は、開けっ放しのロッカーの中に、手を伸ばした。

 直感の正しさは、あっさりと証明された。
 ロッカーの隅に、何か小さなものの感触を見つけた。照明の強い明かりの影になって見えなかったのだ。手を入れたとき、隅の隅まで探るべきだった。

 自分への怒りと期待の高揚は、同時に沸き起こった不安にかき消された。

 この感触は――。

 その小さなものは、金属の冷たさを湛えている。鍵だった。
 札がついていて、番号が刻まれていた。

”103”。

 この鍵が指し示していることは、明らかだった。
 由香里はその場にしゃがみ込んだ。もちろん、ナンバー103のロッカーに鍵を差し込む為だった。

 中を見ずに手を伸ばした……。
 再び、鍵の感触。

 由香里の中に、静かな怒りが湧き起こった。
 次の鍵の番号は、”201”だった。そしてその201の中には、”202”……。
 次々に、素早く、ロッカーを開いていく。
 鍵を持つ手が震える。
 もういいでしょう?これ以上、さらし者にしないで。
 頭が、ぼうっとしてきた。意識が遠くなっていく。
 許して……。

 今度も違った。

 ”102”……。

 なかなか服にありつけないのが、もどかしくて仕方が無かった。

 遠くで、犬の鳴く声がした。

 お願い、神様。あと少し、あと少しだけ、時間を止めて……。
 今度こそ、今度こそ……。

 由香里はロッカーを開けた。

 これまでと違い、空っぽではなかった。
 しかし……そこにあったのは、靴だった。

 ……それだけだ。

――嘘。

 結局、由香里に与えられた”衣装”とは、靴だけなのか……しかし、それもまた、理恵子の悪戯だった。
 ひっくり返してみると、鍵が地面に落ちたのだ。

 そして、その鍵が最後だった。

”204”。

 鍵を開けると、真っ黒なビニール袋で包まれたものがあった。

 すかさず、取り上げる。
 感触で、すぐに分かる。服だ。
 布の感触だ。

 靴とビニール袋を掴むと、光の中から走り出した。
 走りながら、戦利品を胸に抱きかかえる。
 ビニール越しに、布の柔らかい感触が、由香里を包む。
 やった。とうとうやった。
 いつの間にか、泣いていた――涙は風に煽られて頬を冷やしながら伝うと、由香里の耳の下を通って、後ろへと流れていった――そのとき、幻だろうか。頬とは別の体の部分が、ひんやり冷やされているような気がした。
 全力で走った。
 いつの間にか、前を向いていた。
 目の前の道路は、暗くてはっきりとは分からないが、人はいないように見えた。

 心臓は相変わらず爆発しそうだったが、視界の端に見える、店に面したあの路地が、少女を大胆にしていた――あそこまで辿りつけば、うちに帰れる、服を着ることができる……。
 歩道のまん前にたどり着いた。
 道路の先、遠くの方に、車の明かりが見えた。

 躊躇する暇はなかった、行くしかないのだ。道路を駆け出した、行きとは比べ物にならないくらい、短く感じたのは、慣れのせいだけではないだろう……間もなく、由香里は路地の中に入り込んだ。
 心の中に、暖かいものが流れ込む。

 とうとう、やってのけた。

 もう、怯える必要は無いのだ。
 衣服を抱えて、帰ってきた。
 あとははやく、戻らなければ……。

 由香里の前には川が、背中側には、街灯に照らされた道路がある。
 路地だって、安全な場所ではないのだ。

 由香里はトイレの配水管に手を伸ばした。
 ……だが。

 ビニール袋を抱えている――。

 一瞬、うろたえるが、解決策はすぐに思い浮かんだ。

 靴と同じように、ビニール袋にある衣服を、ここで着てしまえばいい。
 だが、打開策を見つけたというのに、由香里の心は暗いものが過ぎった。
 それは、不吉な予感だった。

 あり得ない。あり得るはずがない……。
 だが、由香里がビニール袋の中に見たものは、その予感を裏付けるかのようなものだった。

 ビニール袋の中にあったのは、由香里の私服ではなかった。
 もちろん、由香里の服は店員たちに奪われてしまったのだから、理恵子が手にする筈は無いのだ――。

 だが、代わりに入れられていたものは、由香里が想像もしなかったものだった。

 それは確かに”衣服”ではあった。……しかし、取り出して明かりに照らしてみたとき、由香里は驚愕した。

 その服は、由香里にとって見慣れたものではあったが……。
 あり得ない。これを着て、外の世界を出歩くなんて……。

 路地の前を、突然、車が走り去った。

 取り出した衣服をビニールに仕舞うと、それを犬のように口にくわえた。配水管を芋虫のように伝い、トイレへと登っていった。

 あれほど、心の中で待ちわびた帰還。
 しかし、由香里の心は、このアスファルトに着地した頃と同じように、曇っていた。
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